五塚原古墳の現地説明会の後、せっかくの機会なので、周辺にもあるいくつかの古墳を見て回ることにした。まずは、五塚原古墳の北側に位置する寺戸大塚古墳に向かう。ここで、この日2回目の道の間違いをすることに。地図を見ると北の方に府道を歩くもそれらしきものが見えない。これはと思い、付近の住宅地図を見ると、府道の東側にある丘陵の中にあるような感じである。この丘陵への登り口を探してしばらくうろうろとすることに、すると洛西竹林公園という標識があり、おそらくこの公園の中にあるのではと見当をして公園の入り口を登っていくと、寺戸大塚古墳という案内の標識を見つけることができた。
洛西の方は、竹林で有名なんだよなと思いながら、竹林の中を、これまで歩いてきた方角とは、逆戻りをするような形で歩くことになった。道の両側には、竹が青々と生い茂り、物集女垣、寺戸垣、竹穂垣、古墳垣などいろいろな竹垣がある。この辺りは、竹の径と呼ばれており、ウォーキングするには、もってこいの場所のようだ。
そうして竹林の中を歩いていくと、農作業小屋の奥に小丘が見える。
近づいていくと、寺戸大塚古墳と書かれた石標と説明板がある。
寺戸大塚古墳については、全長98mの前方後円墳である。後円部径58m 後円部高さ18mとなっており、後円部については、三段築造になっているとのこと。ちなみに前方部については、二段築造と考えられているが、後世に開墾などで破壊されており、詳細は不明とのこと。
実際に見てみても、後円部はそれとなく三段築造であることがわかるのだが、前方部については、竹藪に覆われておりよくわからなかった。また、柵の中にあるので、残念なことに墳丘に立ち入ることも出来なかった。前方部については、これまで、桜井茶臼山古墳やメスリ山古墳などの初期の前方後円墳の特徴である柄鏡形と考えられていたが、発掘調査の結果、通常の前方部と変わりないことがわかった。
古墳自体の築造年代は、古墳時代の前期中葉、だいたい4世紀ぐらいの年代が考えられている。
埋葬施設には、前方部と後円部とそれぞれに竪穴式石室があり、それぞれから銅鏡などの副葬品が見つかっている。特に後円部から見つかった三角縁神獣鏡は、椿井大塚山古墳の同笵鏡であると言われている。
寺戸大塚山古墳については、乙訓古墳群として平成28年、五塚原古墳らとともに国の史跡の指定を受けている。
寺戸大塚山古墳から竹林に中を、てくてくと歩き、竹林を抜けて少し歩いたところに伝高畠陵古墳がある。伝高畠陵古墳については、宮内庁から桓武天皇の皇后藤原乙牟漏の高畠陵として治定されている。藤原乙牟漏については、藤原良継の娘であり、桓武天皇の皇后として、平城天皇や嵯峨天皇の生母となり、790年に亡くなっている。後には、天之高藤廣宗照姫之尊という称号を贈られている。
送られている。
奈良時代から平安時代の陵墓がどうであったのかは寡聞にしてよくわからないのだが、大きな墳丘を築くようなものではなかったように思われる。伝高畠陵古墳については、直径約65m、高さ約7mの円墳(帆立貝形古墳かも)と言われており、周辺で見つかった埴輪などから5世紀の前半の築造ではないかと言われている。
向日丘陵にある古墳の築造の順序としては、五塚原古墳⇒元稲荷古墳⇒寺戸大塚古墳⇒妙見山古墳⇒伝高畠陵古墳になるという。そして、向日丘陵に築かれた古墳も大規模なものはこの古墳を最後になる。古墳の形が政治的な階層を表していると考えると伝高畠陵古墳に至って、前方後円墳を作ることはできず円墳になった。また、その後は大規模な古墳の築造は他の地域に移動したと考えるとこの辺りの権力者の交代等があったとも考えられそうである。
伝高畠陵古墳の周辺では、古墳の周辺埋葬と考えられる埴輪円筒棺が見つかっている。
このあとは、物集女街道を歩き、向日神社、元稲荷古墳へ向かうことにした。
この古墳の抜けると、住宅街に入り、ちょうど五塚原古墳の築かれた丘の裏側に出た。
洛西の方は、竹林で有名なんだよなと思いながら、竹林の中を、これまで歩いてきた方角とは、逆戻りをするような形で歩くことになった。道の両側には、竹が青々と生い茂り、物集女垣、寺戸垣、竹穂垣、古墳垣などいろいろな竹垣がある。この辺りは、竹の径と呼ばれており、ウォーキングするには、もってこいの場所のようだ。
そうして竹林の中を歩いていくと、農作業小屋の奥に小丘が見える。
近づいていくと、寺戸大塚古墳と書かれた石標と説明板がある。
寺戸大塚古墳については、全長98mの前方後円墳である。後円部径58m 後円部高さ18mとなっており、後円部については、三段築造になっているとのこと。ちなみに前方部については、二段築造と考えられているが、後世に開墾などで破壊されており、詳細は不明とのこと。
実際に見てみても、後円部はそれとなく三段築造であることがわかるのだが、前方部については、竹藪に覆われておりよくわからなかった。また、柵の中にあるので、残念なことに墳丘に立ち入ることも出来なかった。前方部については、これまで、桜井茶臼山古墳やメスリ山古墳などの初期の前方後円墳の特徴である柄鏡形と考えられていたが、発掘調査の結果、通常の前方部と変わりないことがわかった。
古墳自体の築造年代は、古墳時代の前期中葉、だいたい4世紀ぐらいの年代が考えられている。
埋葬施設には、前方部と後円部とそれぞれに竪穴式石室があり、それぞれから銅鏡などの副葬品が見つかっている。特に後円部から見つかった三角縁神獣鏡は、椿井大塚山古墳の同笵鏡であると言われている。
寺戸大塚山古墳については、乙訓古墳群として平成28年、五塚原古墳らとともに国の史跡の指定を受けている。
寺戸大塚山古墳から竹林に中を、てくてくと歩き、竹林を抜けて少し歩いたところに伝高畠陵古墳がある。伝高畠陵古墳については、宮内庁から桓武天皇の皇后藤原乙牟漏の高畠陵として治定されている。藤原乙牟漏については、藤原良継の娘であり、桓武天皇の皇后として、平城天皇や嵯峨天皇の生母となり、790年に亡くなっている。後には、天之高藤廣宗照姫之尊という称号を贈られている。
送られている。
奈良時代から平安時代の陵墓がどうであったのかは寡聞にしてよくわからないのだが、大きな墳丘を築くようなものではなかったように思われる。伝高畠陵古墳については、直径約65m、高さ約7mの円墳(帆立貝形古墳かも)と言われており、周辺で見つかった埴輪などから5世紀の前半の築造ではないかと言われている。
向日丘陵にある古墳の築造の順序としては、五塚原古墳⇒元稲荷古墳⇒寺戸大塚古墳⇒妙見山古墳⇒伝高畠陵古墳になるという。そして、向日丘陵に築かれた古墳も大規模なものはこの古墳を最後になる。古墳の形が政治的な階層を表していると考えると伝高畠陵古墳に至って、前方後円墳を作ることはできず円墳になった。また、その後は大規模な古墳の築造は他の地域に移動したと考えるとこの辺りの権力者の交代等があったとも考えられそうである。
伝高畠陵古墳の周辺では、古墳の周辺埋葬と考えられる埴輪円筒棺が見つかっている。
このあとは、物集女街道を歩き、向日神社、元稲荷古墳へ向かうことにした。
この古墳の抜けると、住宅街に入り、ちょうど五塚原古墳の築かれた丘の裏側に出た。
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