平成25年12月19日(土)
昨年末に参加した現地説明会について遅ればせながらまとめた。正直、説明会の日からだいぶ経っているので記憶を辿りながらというところ書き綴ってみる。
京都の向日市にある五塚原古墳の現地説明会があるということで、阪急電車に乗って現地に向かう。向日市に行くのは初めてということで、電車の接続を間違えて桂駅まで行ってしまい、そこから折り返すことになった。向日市というと競輪場があるぐらいの印象しかなく、常に通過する駅という印象であった。
駅を降りてからも、案内の人に地図をもらったものの曲がるところを間違えて、競輪場まで行ってしまう。途中慌てて引き返していくと、今度は公園への曲がり角を直進してしまい、案内のおじさんが追いかけてくれて、会場の入り口まで連れていってくれた。二度あることは三度あると言うが、ここまで間違うとここに来させたくない何らかの力が働いたのかという印象すら持ってしまう出だしであった。
そのため、会場に着いた時は、すでに解説の方は始まっていた。
五塚原古墳は、一般にはあまり知られていない古墳だが、箸墓古墳が作られた同時期あるいは直後ぐらいに作られた最古級の古墳である。特に墳丘は前方部が二段、後円部が三段に築造されており、前方部は、バチ型になっている。これは、奈良の桜井市にある東田大塚古墳と形状が一致しており、また、箸墓古墳と同様に後円部と前方部をつなぐくびれ部が前方部から後円部に向かってスロープ状に上がり斜路状平坦面を持っている。これらの墳丘上の特徴から三世紀中頃から後半に築造されたとされる。
五塚原古墳は、平成12年から6次に渡って行われており、今回が第7次の調査となった。
今回は、後円部北東の斜面調査ということで、後円部の形状と段築の構造、墳丘の外周部の状況を把握するために行われた。
【第1調査区】
墳丘の中心線から東へ90℃の位置に設定されている。
墳丘は三段で築造されており、途中二カ所に平坦面が設けられている。斜面には葺石が施されていたが、上方では崩落して、下に落ちているのがわかる。
葺石は近くの川から持ってきたもので、比較的小粒のものが多いとのこと。
墳丘の斜面は、急角度でせり上がったのち緩やかになっている。墳丘を石の山に見立てるための工夫かもしれないとのことだった。基底石が三つ並んでおり、また、外側には礫敷が1.5mほどの幅で存在しているとのこと。
【第2調査区】
墳丘の中心線から北東へ45℃の位置に設定されている。
第1調査区と同様に三段で築造されており、二か所の平坦面が設けられている。
基底石が並んでいるが、第一調査区ほど大ぶりな石で作られていないとのこと。基底石の外側には、礫敷を設けた平坦面があり、その外側には古墳のある墳丘を削った平坦面が露出している。どうもこの古墳を作る時に大規模な整地を実施しているようだ。
第1調査区、第2調査区ともに埴輪等は検出されなかった。
これらのことから、五塚原古墳は、直径55mの正円形の後円部を持つ古墳であり、築造時には、丘陵を削って平坦地を作ったうえで墳丘を作っていること。埴輪等は置かれていなかったと考えられている。
築造にあたっては、前方後円墳の設計図のようなものがあったのではないかとの話もあった。古墳の出現期に、この乙訓地方については、かなり王権の中で重要な位置にあったんだろうと予測される。
最後に、出現期の古墳で、後世の改変をあまり受けていないというところにこの古墳の重要性はあるそうだ。発掘調査はこれからも続けられるそうで、今後、どのような成果が見られるのか。大いに楽しみである。
解説板の内容もふるくなっているなあ。
昨年末に参加した現地説明会について遅ればせながらまとめた。正直、説明会の日からだいぶ経っているので記憶を辿りながらというところ書き綴ってみる。
京都の向日市にある五塚原古墳の現地説明会があるということで、阪急電車に乗って現地に向かう。向日市に行くのは初めてということで、電車の接続を間違えて桂駅まで行ってしまい、そこから折り返すことになった。向日市というと競輪場があるぐらいの印象しかなく、常に通過する駅という印象であった。
駅を降りてからも、案内の人に地図をもらったものの曲がるところを間違えて、競輪場まで行ってしまう。途中慌てて引き返していくと、今度は公園への曲がり角を直進してしまい、案内のおじさんが追いかけてくれて、会場の入り口まで連れていってくれた。二度あることは三度あると言うが、ここまで間違うとここに来させたくない何らかの力が働いたのかという印象すら持ってしまう出だしであった。
そのため、会場に着いた時は、すでに解説の方は始まっていた。
五塚原古墳は、一般にはあまり知られていない古墳だが、箸墓古墳が作られた同時期あるいは直後ぐらいに作られた最古級の古墳である。特に墳丘は前方部が二段、後円部が三段に築造されており、前方部は、バチ型になっている。これは、奈良の桜井市にある東田大塚古墳と形状が一致しており、また、箸墓古墳と同様に後円部と前方部をつなぐくびれ部が前方部から後円部に向かってスロープ状に上がり斜路状平坦面を持っている。これらの墳丘上の特徴から三世紀中頃から後半に築造されたとされる。
五塚原古墳は、平成12年から6次に渡って行われており、今回が第7次の調査となった。
今回は、後円部北東の斜面調査ということで、後円部の形状と段築の構造、墳丘の外周部の状況を把握するために行われた。
【第1調査区】
墳丘の中心線から東へ90℃の位置に設定されている。
墳丘は三段で築造されており、途中二カ所に平坦面が設けられている。斜面には葺石が施されていたが、上方では崩落して、下に落ちているのがわかる。
葺石は近くの川から持ってきたもので、比較的小粒のものが多いとのこと。
墳丘の斜面は、急角度でせり上がったのち緩やかになっている。墳丘を石の山に見立てるための工夫かもしれないとのことだった。基底石が三つ並んでおり、また、外側には礫敷が1.5mほどの幅で存在しているとのこと。
【第2調査区】
墳丘の中心線から北東へ45℃の位置に設定されている。
第1調査区と同様に三段で築造されており、二か所の平坦面が設けられている。
基底石が並んでいるが、第一調査区ほど大ぶりな石で作られていないとのこと。基底石の外側には、礫敷を設けた平坦面があり、その外側には古墳のある墳丘を削った平坦面が露出している。どうもこの古墳を作る時に大規模な整地を実施しているようだ。
第1調査区、第2調査区ともに埴輪等は検出されなかった。
これらのことから、五塚原古墳は、直径55mの正円形の後円部を持つ古墳であり、築造時には、丘陵を削って平坦地を作ったうえで墳丘を作っていること。埴輪等は置かれていなかったと考えられている。
築造にあたっては、前方後円墳の設計図のようなものがあったのではないかとの話もあった。古墳の出現期に、この乙訓地方については、かなり王権の中で重要な位置にあったんだろうと予測される。
最後に、出現期の古墳で、後世の改変をあまり受けていないというところにこの古墳の重要性はあるそうだ。発掘調査はこれからも続けられるそうで、今後、どのような成果が見られるのか。大いに楽しみである。
解説板の内容もふるくなっているなあ。
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