誉田八幡宮を出て、そのすぐ横を走っている東高野街道沿いに、歩く。
東高野街道については、いつごろ整備されたかはわからないが、自然発生的に作られた道路ではなく、計画的に作られた古代の官道ではなかったと言われている。街道沿いには、国府遺跡や市野山古墳(允恭天皇陵)、誉田山古墳、誉田八幡宮など著名な遺跡などの多くある。また、道についても、羽曳野市の方でわかりやすいように整備されている。
考えてみれば、誉田山古墳などの巨大古墳というものを、当時の権力者の実力を見える形で示すために造られたものなのだから、人々、特に他所から来た人に見てもらう必要があるわけで、そのためには官道沿いに造営していくということは意義のあることだと思う。
東高野街道を歩いていると少し誉田山古墳から外れていってしまうので、途中から新興住宅地の中に入っていく。誉田山古墳の東側については、古墳の堤、いっぱいまで住宅が建っており、なかなか古墳に近づくことができない。たまに、駐車場とかになっていて、住宅が途切れたところから何とか墳丘が見える。
古墳の堤の上には、応神天皇陵の域内を示す石柱が建っている。堤からはるか先にわずかに古墳の後円部の墳頂の部分だけが顔を出している。
住宅に囲まれた中に、誉田山古墳の陪冢に指定されている栗塚古墳(応神天皇陵ろ号陪冢)がある。この古墳を探すのには苦労をした。四方八方ぐるりとほぼ住宅に囲まれており、一部駐車場になっているところから、古墳の観察ができた。しかし、どうやって宮内庁の人は管理してるんだろう。
古墳自体は、かなり後世の改変を受けて変形をしているが、何となく方墳のイメージをとどめている気がする。実際は、一辺43m、高さ5mで周囲に周濠を廻らせていたらしい。この古墳も宮内庁の管轄下にあるため、内部構造等はわからない。
この古墳から少し北へ行くと、市営のグラウンドが見える。そして、グラウンドのフェンス越しに二ッ塚古墳が見える。
二ツ塚古墳については、現在、宮内庁により、応神天皇陵の域内陪冢とされているが、どうも違うようである。航空写真を見るとわかるのだが、誉田山古墳の東側の周濠がこの古墳を取り巻くように、破壊しないように配慮して造られている。もともと先行して二ツ塚古墳が築造され、この古墳の被葬者と誉田山古墳の被葬者とが何らかの関係があったことから、破壊することなく、現在に至ったのではないかと考えられよう。
二ツ塚古墳は、全長110m、前方部幅60m、高さ、8.6m、後円部径73m、高さ9.9mとされる。採集された円筒埴輪から築造年代は、誉田山古墳に先行する4世紀の末頃だとされている。
また、グラウンドの隅に、同じくフェンス越しに小さな方墳が見える。これが、東馬塚古墳である。この古墳も応神天皇陵のい号陪冢と治定されている。
この古墳についても、方墳の名残をとどめており、周辺の発掘調査により、一辺30mの方墳であることが確認されている。東馬塚古墳という名称は、日本書紀に伝えられておる田辺史伯孫の説話にちなんでいるのであろう。ちなみに、誉田山古墳の周辺からは、説話に伝えられているように馬形の埴輪が出土している。これも日本書紀の記述と発掘調査の結果が一致している例として言えそうではある。
東馬塚古墳から、しばらく住宅街を北に進んでいくと、西名阪道に出る。高速道路の高架下をくぐって、府営住宅に行くと、敷地の中に古墳らしきものが見える。
近寄ってみると、盾塚古墳という大阪府が作成した説明板が建っていた。盾塚古墳についてはもともとは、大阪府営住宅を建てるために破壊されたのだが、おそらく建て替えをきっかけに復元して、古墳公園としているものである。復元されたデータを記してみると、墳丘長73m、前方部幅25m、後円部径49mとなっており、後円部の西側には造り出しがあった。埋葬施設としては、粘土郭に割竹型木簡が埋納されていた。
この古墳については、古墳の墳丘にも立ち入ることができる。墳丘の上にはベンチがあるのでくつろぐことも可能である。
盾塚古墳については、誉田山古墳の陪冢とも考えられるものであり、これまでに紹介した陪冢以外にも、鞍塚古墳や珠金塚古墳などの陪冢らしきものが存在していたらしいが、すでに消滅している。誉田山古墳について、ちょうど藤井寺市と羽曳野市の両市にまたがって存在しているのだが、藤井寺市側は、空き地となっていて古墳に沿って歩くことができるのだが、羽曳野市側に入ると住宅が建て混み、住宅の隙間にしか古墳を見ることができないようになっている。何となくではあるが、藤井寺市と羽曳野市の古墳に対するまなざしの差を感じないではいられない。
盾塚古墳から誉田山古墳に戻ると、拝所の前に道を挟んで大鳥塚古墳が目に飛び込んでくる。この古墳については、また次項で述べていきたい。
↑大鳥塚古墳である。
東高野街道については、いつごろ整備されたかはわからないが、自然発生的に作られた道路ではなく、計画的に作られた古代の官道ではなかったと言われている。街道沿いには、国府遺跡や市野山古墳(允恭天皇陵)、誉田山古墳、誉田八幡宮など著名な遺跡などの多くある。また、道についても、羽曳野市の方でわかりやすいように整備されている。
考えてみれば、誉田山古墳などの巨大古墳というものを、当時の権力者の実力を見える形で示すために造られたものなのだから、人々、特に他所から来た人に見てもらう必要があるわけで、そのためには官道沿いに造営していくということは意義のあることだと思う。
東高野街道を歩いていると少し誉田山古墳から外れていってしまうので、途中から新興住宅地の中に入っていく。誉田山古墳の東側については、古墳の堤、いっぱいまで住宅が建っており、なかなか古墳に近づくことができない。たまに、駐車場とかになっていて、住宅が途切れたところから何とか墳丘が見える。
古墳の堤の上には、応神天皇陵の域内を示す石柱が建っている。堤からはるか先にわずかに古墳の後円部の墳頂の部分だけが顔を出している。
住宅に囲まれた中に、誉田山古墳の陪冢に指定されている栗塚古墳(応神天皇陵ろ号陪冢)がある。この古墳を探すのには苦労をした。四方八方ぐるりとほぼ住宅に囲まれており、一部駐車場になっているところから、古墳の観察ができた。しかし、どうやって宮内庁の人は管理してるんだろう。
古墳自体は、かなり後世の改変を受けて変形をしているが、何となく方墳のイメージをとどめている気がする。実際は、一辺43m、高さ5mで周囲に周濠を廻らせていたらしい。この古墳も宮内庁の管轄下にあるため、内部構造等はわからない。
この古墳から少し北へ行くと、市営のグラウンドが見える。そして、グラウンドのフェンス越しに二ッ塚古墳が見える。
二ツ塚古墳については、現在、宮内庁により、応神天皇陵の域内陪冢とされているが、どうも違うようである。航空写真を見るとわかるのだが、誉田山古墳の東側の周濠がこの古墳を取り巻くように、破壊しないように配慮して造られている。もともと先行して二ツ塚古墳が築造され、この古墳の被葬者と誉田山古墳の被葬者とが何らかの関係があったことから、破壊することなく、現在に至ったのではないかと考えられよう。
二ツ塚古墳は、全長110m、前方部幅60m、高さ、8.6m、後円部径73m、高さ9.9mとされる。採集された円筒埴輪から築造年代は、誉田山古墳に先行する4世紀の末頃だとされている。
また、グラウンドの隅に、同じくフェンス越しに小さな方墳が見える。これが、東馬塚古墳である。この古墳も応神天皇陵のい号陪冢と治定されている。
この古墳についても、方墳の名残をとどめており、周辺の発掘調査により、一辺30mの方墳であることが確認されている。東馬塚古墳という名称は、日本書紀に伝えられておる田辺史伯孫の説話にちなんでいるのであろう。ちなみに、誉田山古墳の周辺からは、説話に伝えられているように馬形の埴輪が出土している。これも日本書紀の記述と発掘調査の結果が一致している例として言えそうではある。
東馬塚古墳から、しばらく住宅街を北に進んでいくと、西名阪道に出る。高速道路の高架下をくぐって、府営住宅に行くと、敷地の中に古墳らしきものが見える。
近寄ってみると、盾塚古墳という大阪府が作成した説明板が建っていた。盾塚古墳についてはもともとは、大阪府営住宅を建てるために破壊されたのだが、おそらく建て替えをきっかけに復元して、古墳公園としているものである。復元されたデータを記してみると、墳丘長73m、前方部幅25m、後円部径49mとなっており、後円部の西側には造り出しがあった。埋葬施設としては、粘土郭に割竹型木簡が埋納されていた。
この古墳については、古墳の墳丘にも立ち入ることができる。墳丘の上にはベンチがあるのでくつろぐことも可能である。
盾塚古墳については、誉田山古墳の陪冢とも考えられるものであり、これまでに紹介した陪冢以外にも、鞍塚古墳や珠金塚古墳などの陪冢らしきものが存在していたらしいが、すでに消滅している。誉田山古墳について、ちょうど藤井寺市と羽曳野市の両市にまたがって存在しているのだが、藤井寺市側は、空き地となっていて古墳に沿って歩くことができるのだが、羽曳野市側に入ると住宅が建て混み、住宅の隙間にしか古墳を見ることができないようになっている。何となくではあるが、藤井寺市と羽曳野市の古墳に対するまなざしの差を感じないではいられない。
盾塚古墳から誉田山古墳に戻ると、拝所の前に道を挟んで大鳥塚古墳が目に飛び込んでくる。この古墳については、また次項で述べていきたい。
↑大鳥塚古墳である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます