京都は、千本出水から出水通を西へ、ちょうど千本通と七本松通との中間にあたる場所にある石材店の横の小さなスペースに「宴の松原」と刻まれた石碑と京都市が建てた説明板が立っている。
宴の松原というのは、あまり聞かれない名称であるが、これは平安京が造営されたときに、大内裏の西側、豊楽院の北側にあった空間地で、南北約430m、東西約250mの広さがあり、平安京しか見られない空間である。
近くにある京都アスニーにある平安京の模型にもきちんと松原になって表現させている。
この宴の松原については、今昔物語集に次のような話が伝わっている。
仁和3年のことだから、西暦でいえば887年、天皇で言えば宇多天皇の御代である。
三人の女が連れ立って、宴の松原を歩いていたところ、途中非常に美しい男と出会った。三人の女の内の一人が、その男と親しげに話しをするようになったため、連れの二人は別の場所で待っていたが、その女がやってくる様子が一向にないため、男と女がいた場所に戻ってみると、男の姿はなく、足元には、その女の手足と思われるものが転がっていたという。
その後、都の役人が来て調べたが、死体はなく、手足のみが見つかった。その後大騒ぎとなり、ある人は、「鬼が人の姿になり、女を食い殺したのだろう」とうわさされたという。
また、この話は、当時の様子を記載した歴史書「日本三大実録」にも記載されているとのことで、実際にあった話なのかもしれない。今でいえば、バラバラ殺人事件である。
当時であれば、あかりとかもなく真っ暗で気味の悪い場所であったのだろう。「大鏡」には、藤原道隆が、弟藤原道長との肝試しの時に、宴の松原で気味の悪い声を聞き、逃げ帰ったという話が載っている。当時、宴の松原という場所が、鬼の出る気味の悪い場所として認識されていたのだろう。
宴の松原が一体どういった目的で設けられた空間なのかについては、詳細はわかっていない。内裏の建て替え用地ではと言われているが、文献上の裏付けはないらしい。また、発掘調査も行われていないので詳細もあまりわかっていないようだ。
最後に、宴の松原の石碑の横にある歌碑は「あわれにも今は 限りと思いしを まためぐりあふ えんの松はら」という栄花物語に出てくる歌だそうだ。
宴の松原の周辺には、平安京大極殿跡など、平安京の施設を示した石碑が多くある。そういう石碑を探して歩くのも面白そうである。
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