近鉄飛鳥駅を降りて、高松塚古墳の方へ向かう道を途中、レンタルサイクル店の前の標識に従って北に向かうと宮内庁により欽明天皇陵として治定されている平田梅山古墳の前に出る。
平田梅山古墳は、墳長140m、前方部幅105m、後円部径72m、前方部高12m、後円部径15mの規模となっている。
飛鳥の散策ルートでは南側から拝所に行く形になっているが、正式な参道は、西側から小さい丘を越えていく形なる。
参道の両側は、畑になっていて、丘を登っていくと急にちょっと高いところから墳丘が見える。
なかなかいい眺めである。古墳の墳丘もよく見ることができる。
平田梅山古墳は、欽明天皇陵として宮内庁により管理されているため、古墳の詳細はわからないが、葺石や周濠等がある。欽明天皇については、古代の天皇の中でターニングポイントになる位置を占める天皇である。系統譜では、継体天皇、安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇ということになるのだが、林屋辰三郎氏の「継体・欽明朝の内乱の史的分析」という論文に代表される二朝並立していたのではないかと言われる時代であり、この天皇の時に、初めて蘇我氏から天皇の后が出て、蘇我氏の台頭が始まっている。また、仏教伝来もこの天皇の時である。欽明天皇の時から天皇家を中心とした古代国家の姿が明確に見え始めるような気がしている。
平田梅山古墳は、北側は直前まで丘陵が迫っており、全体の姿は南側からでしか見えない。
おそらく、くるりと古墳の周りをまわるということはできないと思う。ただ、南側から見る姿は、周濠も広く、水量も豊かなので非常に美しい。ただ、もともとの周濠はもう少し広かったのかもしれない。というのは、南側10mぐらいに外堤と見られる高まりが残っている。現在、猿石と称せられる石像もそのから出土したとのことである。(出土後しばらくは、梅山古墳の墳丘に置かれていたらしい。)
最後に、平田梅山古墳についても、被葬者についてはかなりの論争がある。一般的には欽明天皇の陵として一番有力なのは見瀬丸山古墳だとされている。欽明天皇の事績と言われるものからするとこの古墳の方が似つかわしいような気もする。
しかし、檜隈という地名からすると、平田梅山古墳の方が分がありそうである。どちらが古いかというと、まだ結論は出ていないようだ。ただ、ともに大和盆地における前方後円墳の最終段階のものであるのは確かなようである。
平田梅山古墳は、墳長140m、前方部幅105m、後円部径72m、前方部高12m、後円部径15mの規模となっている。
飛鳥の散策ルートでは南側から拝所に行く形になっているが、正式な参道は、西側から小さい丘を越えていく形なる。
参道の両側は、畑になっていて、丘を登っていくと急にちょっと高いところから墳丘が見える。
なかなかいい眺めである。古墳の墳丘もよく見ることができる。
平田梅山古墳は、欽明天皇陵として宮内庁により管理されているため、古墳の詳細はわからないが、葺石や周濠等がある。欽明天皇については、古代の天皇の中でターニングポイントになる位置を占める天皇である。系統譜では、継体天皇、安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇ということになるのだが、林屋辰三郎氏の「継体・欽明朝の内乱の史的分析」という論文に代表される二朝並立していたのではないかと言われる時代であり、この天皇の時に、初めて蘇我氏から天皇の后が出て、蘇我氏の台頭が始まっている。また、仏教伝来もこの天皇の時である。欽明天皇の時から天皇家を中心とした古代国家の姿が明確に見え始めるような気がしている。
平田梅山古墳は、北側は直前まで丘陵が迫っており、全体の姿は南側からでしか見えない。
おそらく、くるりと古墳の周りをまわるということはできないと思う。ただ、南側から見る姿は、周濠も広く、水量も豊かなので非常に美しい。ただ、もともとの周濠はもう少し広かったのかもしれない。というのは、南側10mぐらいに外堤と見られる高まりが残っている。現在、猿石と称せられる石像もそのから出土したとのことである。(出土後しばらくは、梅山古墳の墳丘に置かれていたらしい。)
最後に、平田梅山古墳についても、被葬者についてはかなりの論争がある。一般的には欽明天皇の陵として一番有力なのは見瀬丸山古墳だとされている。欽明天皇の事績と言われるものからするとこの古墳の方が似つかわしいような気もする。
しかし、檜隈という地名からすると、平田梅山古墳の方が分がありそうである。どちらが古いかというと、まだ結論は出ていないようだ。ただ、ともに大和盆地における前方後円墳の最終段階のものであるのは確かなようである。
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