三千院を出て、門前の道をさらに奥の方に行くと、途中、律川を超えた所に百人一首で知られる後鳥羽天皇と順徳天皇の墓所、大原陵がある。
後鳥羽天皇と順徳天皇は、承久の乱を引き起こし、戦いに敗れたのち、後鳥羽天皇は隠岐に、順徳天皇は佐渡に配流となり、その地で客死し、死後この地に埋葬されたという。そういえば、昔、承久の乱は承久の変と言われていた気がするが、いつの間にか承久の乱に統一されている。事件の本質を考えると乱が正しいと思われる。僕自身は、変とは、クーデターを指す言葉だと認識している。そういえば、最近、世情をにぎわしている安保法案の強行採決は、クーデターであり、後世、歴史家に平成の変と呼ばれるのかもしれない。立憲主義を取る国家で、だれが見ても憲法に違反するという法律を数の論理で押し切って成立させたことは、日本の国家の根底を揺るがしている問題なのである。集団的自衛権うんぬんよりももっと根本的なことをないがしろにした行為のはずなのである。ちょっと話が横道にそれてしまった。
この2人の天皇が、死後どうして大原の地に埋葬されたのかは不明。ただ、これまでの経過からして、直接都にて埋葬することは憚られたのかも知れない。この日は、日曜日であったためか、入り口の柵に鍵がかけられており拝所まで入ることはできなかった。また、陵の横に法華堂がある。
法華堂は、後鳥羽上皇の冥福を祈るため、水無瀬の御所の材をもって1420年(仁治1)に建立された。現在の建物は江戸時代の安永年間に再建されたものである。ここも宮内庁が管轄しているかな。境内の中には当然入ることはできないようになっている。この法華堂を建てたのが、当時梶井門跡の門主であった尊快法親王の母 修明門院とのこと。そして、尊快法親王の父は後鳥羽天皇であり、順徳天皇は、後鳥羽天皇と修明門院との子であり、尊快法親王とは同母弟にあたる。その関係で、大原の地に埋葬されたと考えられそうである。
そして系図辿っていくと面白いことに、修明門院の母は平教子といい、平清盛の弟、平教盛の娘なのである。順徳天皇には、壇ノ浦で滅んだ平氏の血が流れていたのだ。もしかしたらこうしたことも順徳天皇を承久の乱に駆り立てた要因の一つだったのかもしれない。
そして、奥に行くと勝林院という小さなお寺に行きあたる。小さいお寺というものの、なかなか本堂が立派なものである。
お寺の中に入ると、独特の節をつけたお経のようなものが聞こえる。声明というもので、仏典に節をつけたもので儀礼などに用いられたという。キリスト教で言う讃美歌のようなものと言えばイメージがしやすいか?声明のことを魚山ともいう。勝林院は、近くの来迎院とともに天台声明の道場とされており、また、共に山号を魚山という。
本堂は、白木で建てられていて、飾りっ気のない山里のお寺という感じがする。
本堂に上がると、本尊の阿弥陀如来像の手からひもが伸びている。阿弥陀如来と結縁を結ぶためのものなのだろうか、折角なのでひもを握っておいた。本堂の端に座って、庭や裏山を眺めると風に緑の葉が揺れて、心地よい光景であった。
この本堂の欄間彫刻が見どころとなっている。
鶴と亀と龍を掘っているんでしたっけ。(忘れてしまった。)縁起物を彫刻しているようだ。
また、勝林院には鎌倉時代のものと言われている宝篋印塔と平安時代前期の梵鐘が国の重要文化財に指定されている。
最後に、勝林院は、仏教史上では大原問答が行われたところとしても重要なところである。大原問答とは、浄土宗開祖法然が1186 年 に天台宗の顕真の招請によって大原の勝林院で浄土宗義について、他の宗派である明遍,証真,貞慶,智海,重源らと問答を行なったものであり、その際、法然は高僧たちの質問に対して明確に応答し,念仏の功徳を説き,弥陀本願の深い妙旨を語ったので,集った多くの人々が信服し,それより3日3晩不断の念仏を称したと伝えられる。
なおその時に法然が腰かけたと伝えられる石が、勝林院の門前にあり、また橋のたもとには、その時に、法然の弟子である熊谷直実が鉈を捨てたと伝えられる藪がある。
そうそう、勝林院には、モリアオガエルがいる。境内の池の木の枝には、白い泡のような卵がいっぱい産み付けられていた。
そして目線を下に移したところ、その池のほとりをシマヘビが這っていた。蛙を狙っているのかなと思っていたが、特に何をするということもなくどこかへ行ってしまった。人生で2度目の野生の蛇との遭遇だった。
後鳥羽天皇と順徳天皇は、承久の乱を引き起こし、戦いに敗れたのち、後鳥羽天皇は隠岐に、順徳天皇は佐渡に配流となり、その地で客死し、死後この地に埋葬されたという。そういえば、昔、承久の乱は承久の変と言われていた気がするが、いつの間にか承久の乱に統一されている。事件の本質を考えると乱が正しいと思われる。僕自身は、変とは、クーデターを指す言葉だと認識している。そういえば、最近、世情をにぎわしている安保法案の強行採決は、クーデターであり、後世、歴史家に平成の変と呼ばれるのかもしれない。立憲主義を取る国家で、だれが見ても憲法に違反するという法律を数の論理で押し切って成立させたことは、日本の国家の根底を揺るがしている問題なのである。集団的自衛権うんぬんよりももっと根本的なことをないがしろにした行為のはずなのである。ちょっと話が横道にそれてしまった。
この2人の天皇が、死後どうして大原の地に埋葬されたのかは不明。ただ、これまでの経過からして、直接都にて埋葬することは憚られたのかも知れない。この日は、日曜日であったためか、入り口の柵に鍵がかけられており拝所まで入ることはできなかった。また、陵の横に法華堂がある。
法華堂は、後鳥羽上皇の冥福を祈るため、水無瀬の御所の材をもって1420年(仁治1)に建立された。現在の建物は江戸時代の安永年間に再建されたものである。ここも宮内庁が管轄しているかな。境内の中には当然入ることはできないようになっている。この法華堂を建てたのが、当時梶井門跡の門主であった尊快法親王の母 修明門院とのこと。そして、尊快法親王の父は後鳥羽天皇であり、順徳天皇は、後鳥羽天皇と修明門院との子であり、尊快法親王とは同母弟にあたる。その関係で、大原の地に埋葬されたと考えられそうである。
そして系図辿っていくと面白いことに、修明門院の母は平教子といい、平清盛の弟、平教盛の娘なのである。順徳天皇には、壇ノ浦で滅んだ平氏の血が流れていたのだ。もしかしたらこうしたことも順徳天皇を承久の乱に駆り立てた要因の一つだったのかもしれない。
そして、奥に行くと勝林院という小さなお寺に行きあたる。小さいお寺というものの、なかなか本堂が立派なものである。
お寺の中に入ると、独特の節をつけたお経のようなものが聞こえる。声明というもので、仏典に節をつけたもので儀礼などに用いられたという。キリスト教で言う讃美歌のようなものと言えばイメージがしやすいか?声明のことを魚山ともいう。勝林院は、近くの来迎院とともに天台声明の道場とされており、また、共に山号を魚山という。
本堂は、白木で建てられていて、飾りっ気のない山里のお寺という感じがする。
本堂に上がると、本尊の阿弥陀如来像の手からひもが伸びている。阿弥陀如来と結縁を結ぶためのものなのだろうか、折角なのでひもを握っておいた。本堂の端に座って、庭や裏山を眺めると風に緑の葉が揺れて、心地よい光景であった。
この本堂の欄間彫刻が見どころとなっている。
鶴と亀と龍を掘っているんでしたっけ。(忘れてしまった。)縁起物を彫刻しているようだ。
また、勝林院には鎌倉時代のものと言われている宝篋印塔と平安時代前期の梵鐘が国の重要文化財に指定されている。
最後に、勝林院は、仏教史上では大原問答が行われたところとしても重要なところである。大原問答とは、浄土宗開祖法然が1186 年 に天台宗の顕真の招請によって大原の勝林院で浄土宗義について、他の宗派である明遍,証真,貞慶,智海,重源らと問答を行なったものであり、その際、法然は高僧たちの質問に対して明確に応答し,念仏の功徳を説き,弥陀本願の深い妙旨を語ったので,集った多くの人々が信服し,それより3日3晩不断の念仏を称したと伝えられる。
なおその時に法然が腰かけたと伝えられる石が、勝林院の門前にあり、また橋のたもとには、その時に、法然の弟子である熊谷直実が鉈を捨てたと伝えられる藪がある。
そうそう、勝林院には、モリアオガエルがいる。境内の池の木の枝には、白い泡のような卵がいっぱい産み付けられていた。
そして目線を下に移したところ、その池のほとりをシマヘビが這っていた。蛙を狙っているのかなと思っていたが、特に何をするということもなくどこかへ行ってしまった。人生で2度目の野生の蛇との遭遇だった。
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