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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

京都大原を歩く③ ~寂光院~

2015-07-20 19:42:24 | 文学をたどる
 勝林院を出た後、もと来た道を大原のバス停まで戻る。その後、三千院とは全く反対の方向に、寂光院を目標に歩き始めた。この日は、地域の運動会でもあったのか、学校の方から音楽や放送が聞こえてきた。
 寂光院へ向かう道は、三千院への道とは違って、あまり土産物屋などなく、観光客も多くないため、民家と田園風景を楽しみながら歩くことができる。

 

 ただ、この辺りは雪が多いのか、民家の屋根の勾配が、雪国の民家のようにきつくなっているような感じを受けた。周りの景色を楽しみながら、歩いていくと途中、大原温泉という旅館がある。ここまで来ると寂光院まではすぐである。寂光院に行く手前に、建礼門院の御陵があるのだが、ここは帰りに寄ることにして、先に寂光院に入ることにした。

 石段を登って、小さな山門をくぐると、すぐに本堂が見える。お堂の中から、若い尼僧にこれから説明を始めるからと声をかけられ、お堂に入る。寂光院の説明なのだが、声が凛としていて感じが良かった。寂光院の創建については、聖徳太子が父用明天皇の菩提を伴うために開創したと伝えられる。この辺りは伝承なので何とも言えないけどね。
 ただ、私たちが寂光院を訪れる目的としては、平氏の滅亡後、生き残った建礼門院徳子が、東山長楽寺で落飾したのち、この地で平氏一族の菩提をとむらいながら隠棲したところとして、歴史的、文学史的舞台の跡を辿っていくことにある。
 寂光院のロケーションは、国母として頂点を極めながらも、一族の滅亡を見届け、なおも生きなければいけない数奇な生涯を辿った女院が、人知れず隠棲した地としてのイメージを彷彿とさせるものがある。

 

 平家物語では、ラストを飾る場面として、後白河法皇が、寂光院にて隠棲している建礼門院のもとを訪ねる「大原御幸」にて終わる。そこで建礼門院は、自分の一生を、佛教思想である六道になぞらえて語る。そして、建礼門院が語ることで、平氏一族の滅亡への運命が語られ、すべてのことが浄化され、極楽往生へと繋がっていくのである。
 この「大原御幸」が実際にあったのかどうか、諸説がありわかれているところである。中世史家の高橋昌明氏は、著書「平家の群像」の中で、実際にあったのかどうか懐疑的であるとされている。

 ただ、平家物語の結びとしては、必要な個所であったろうと思う。そして、大原御幸を記した巻は、灌頂巻として、琵琶法師たちの中では秘伝の巻として重視されていた。

 寂光院の境内の西には、建礼門院徳子が隠棲していたと伝えられる庵室の跡がある。

 

 そして境内には、諸行無常の鐘楼や千年姫小松といった平家物語の世界を彷彿とさせるものがある。

 

 残念なことに、寂光院の本堂は、平成12年に放火により焼失し、平成17年になって再建されたものである。この時、堂内にあった徳子と阿波内侍の張り子像(建礼門院の手紙や写経を使用して作ったものという)も焼失してしまった。誰が何のためにしたのかはわからないが何とも罪深いものである。
 

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