そして殺人者は野に放たれる
日垣 隆著 新潮文庫
刑法39条をめぐる問題を提起した書である。僕も以前生活保護のケースワーカーをしていたときに不思議に思っていたのだが、日本社会というのは非常に精神病という診断を受けたものには甘いということである。担当していたケースの中には例えば覚せい剤の常習者がいたりする。中にはどう考えても他害の恐れのある人物もいるのだが、相談に行っても警察では全く相手にされることはない。保健所と警察の間を盥回しされるだけである。挙句には誰か殴られるとかの事象がないとなんて言われる事になる。そうなる前に何とかしたいのだがなんともならないらしい。(いや何とかしようとすればできるのだろうが人権派?の弁護士等にねじ込まれるのが嫌なんだろうと思う。)
こうした環境の中で、日本の社会の中で実は普通に生活している人の人権が一番ほったらかしになっているという事実だ。そういえば大学で学ぶのは、加害者の人権、被疑者の人権など特殊な事例であって、普通の生活をしている人の人権なんて全く講学上対象となっていない。当たり前のことを議論してこなかったからおかしくなっているんだろうなあと今になって思う。
本書はそういった精神障害者とそれに対し思考停止に陥る司法当局とマスコミを取り上げた書物である。
本書で問題とする刑法39条とはこんな条文である。
39条「心神喪失者の行為は、罰しない。」
第2項「心神耗弱者の行為は、その刑を軽減する。」
そしてこの条文を司法が乱発をし、またそのことによって刑を逃れた人々を処遇する施設が全く存在しないところが問題なのである。僕自身精神病者を装って起訴を逃れ続けている人物も知っているし、また水戸黄門の印籠のように精神障害者手帳を取り出す人間も知っている。当然にそうすれば罪を逃れられることを知っているのである。そして彼等は今も特に何の拘束も受けずに一般社会の中で暮らしている。
こういった問題は刑法では責任能力の問題として捉えられる。心神喪失や心神耗弱の問題は責任阻却事由という事になる。日本の刑法の場合、簡単に精神障害者に対して責任阻却事由を認めているところに問題があるのだろう。そして心身耕弱者なのだから仕方がないで済まされるのかどうか。これが犯罪傾向の中で稀な話であればいいだろうが猫も杓子も刑の軽減を求めて精神鑑定を持ち出し、簡単に認容している状況を前に、果たしてこのままでいいのかどうか。
近年やっと39条について議論がなされつつある。今まで被疑者の方の人権ばかりに目が行っていた司法界も少し被害者の人権といったものを少しは考えるようになってきた。だが、いまだほとんどこういった犯罪を犯したが、刑を執行されなかった精神障害者を処遇する施設は皆無に等しい。
そろそろこういった問題を本気で考えていく必要があるのではないか。そしてマスコミも精神障害者の問題に目を背けている。報道を見ていてわかるが、加害者が精神障害者と思われる事件には加害者の名前が伏せられていることが多い。そのことがこの問題を国民の目に触れられない状況にしているといっていいだろう。
刑罰の軽減理由として精神鑑定が乱発されている現在、改めて39条の問題を考えていく必要はあると思う。そして、刑罰を逃れた者が、何事もなく社会の中で生活させていいのだろうか。少なくとも犯罪を犯して刑罰を受けられないぐらい精神を病んでいるのであるならば一定期間治療に専念させる必要はあるのではないか。それが司法の責務ではないだろうか。
一番守られるべき人権は何か?普通に生活している人たちの人権ではないだろうか。改めてそのことを考えていくべきときにきていると思う。
日垣 隆著 新潮文庫
刑法39条をめぐる問題を提起した書である。僕も以前生活保護のケースワーカーをしていたときに不思議に思っていたのだが、日本社会というのは非常に精神病という診断を受けたものには甘いということである。担当していたケースの中には例えば覚せい剤の常習者がいたりする。中にはどう考えても他害の恐れのある人物もいるのだが、相談に行っても警察では全く相手にされることはない。保健所と警察の間を盥回しされるだけである。挙句には誰か殴られるとかの事象がないとなんて言われる事になる。そうなる前に何とかしたいのだがなんともならないらしい。(いや何とかしようとすればできるのだろうが人権派?の弁護士等にねじ込まれるのが嫌なんだろうと思う。)
こうした環境の中で、日本の社会の中で実は普通に生活している人の人権が一番ほったらかしになっているという事実だ。そういえば大学で学ぶのは、加害者の人権、被疑者の人権など特殊な事例であって、普通の生活をしている人の人権なんて全く講学上対象となっていない。当たり前のことを議論してこなかったからおかしくなっているんだろうなあと今になって思う。
本書はそういった精神障害者とそれに対し思考停止に陥る司法当局とマスコミを取り上げた書物である。
本書で問題とする刑法39条とはこんな条文である。
39条「心神喪失者の行為は、罰しない。」
第2項「心神耗弱者の行為は、その刑を軽減する。」
そしてこの条文を司法が乱発をし、またそのことによって刑を逃れた人々を処遇する施設が全く存在しないところが問題なのである。僕自身精神病者を装って起訴を逃れ続けている人物も知っているし、また水戸黄門の印籠のように精神障害者手帳を取り出す人間も知っている。当然にそうすれば罪を逃れられることを知っているのである。そして彼等は今も特に何の拘束も受けずに一般社会の中で暮らしている。
こういった問題は刑法では責任能力の問題として捉えられる。心神喪失や心神耗弱の問題は責任阻却事由という事になる。日本の刑法の場合、簡単に精神障害者に対して責任阻却事由を認めているところに問題があるのだろう。そして心身耕弱者なのだから仕方がないで済まされるのかどうか。これが犯罪傾向の中で稀な話であればいいだろうが猫も杓子も刑の軽減を求めて精神鑑定を持ち出し、簡単に認容している状況を前に、果たしてこのままでいいのかどうか。
近年やっと39条について議論がなされつつある。今まで被疑者の方の人権ばかりに目が行っていた司法界も少し被害者の人権といったものを少しは考えるようになってきた。だが、いまだほとんどこういった犯罪を犯したが、刑を執行されなかった精神障害者を処遇する施設は皆無に等しい。
そろそろこういった問題を本気で考えていく必要があるのではないか。そしてマスコミも精神障害者の問題に目を背けている。報道を見ていてわかるが、加害者が精神障害者と思われる事件には加害者の名前が伏せられていることが多い。そのことがこの問題を国民の目に触れられない状況にしているといっていいだろう。
刑罰の軽減理由として精神鑑定が乱発されている現在、改めて39条の問題を考えていく必要はあると思う。そして、刑罰を逃れた者が、何事もなく社会の中で生活させていいのだろうか。少なくとも犯罪を犯して刑罰を受けられないぐらい精神を病んでいるのであるならば一定期間治療に専念させる必要はあるのではないか。それが司法の責務ではないだろうか。
一番守られるべき人権は何か?普通に生活している人たちの人権ではないだろうか。改めてそのことを考えていくべきときにきていると思う。
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