前回に引き続き大安寺という事で、やっと境内の中に入る。
大安寺の南門。ここから境内に入る。この門は、興福寺の旧一乗院の門を移築したものである。
ちなみに南門は、大安寺の南大門跡の上に建っている。
大安寺の歴史をおさらいしておこう。聖徳太子が建立した熊凝精舎が前身という言い伝えがあるもののはっきりしているのは以下の通り。
639年 百済大寺 建立
673年 高市の地に移転 高市大寺と改称する
677年 大官大寺と改称
716年 平城京左京六坊四坊に移転
722年 元明天皇一周忌法要が行われる。
729年 寺号を大安寺と改める
911年 講堂と僧房が焼失
949年 西塔が焼失
1017年 東塔と大半の伽藍が焼失
現在の堂宇は明治以降の再建である。
写真は嘶堂と本堂(奥)である。本堂は明治時代に再建されたもので、本尊十一面観音像を安置している。嘶堂は、平成の建物。
境内は、かなり広く、空間が多い。(ただし、最盛時の字域の4%程度の広さなんだそうだ。)拝観者もあまりいないので、落ち着いて拝観をすることが出来る。穴場ではある。
宝物館(讃仰殿)では、不空羂索観音や楊柳観音、聖観音、四天王像を見ることが出来る。
また、境内に大伴家持の歌を刻んだ万葉歌碑があった。
かなり摩滅していて、字を読み取ることが難しいが、「うつせみは 数なき身なり 山川の さやけき見つつ 道を尋ねな」という歌を万葉仮名で書いてあるのだそうだ。
歌意は、「生きてこの世に在る人間というものはいくばくもないはかない命を持つ身なのだ。山川の澄みきった地に入り込んで悟りの道を辿(たど)って行きたいものだ。」とあり、かなり諦念のこもった歌である気がする。ちょうど病に倒れた時に詠んだ歌であるようだ。
広い境内には、中門跡というものある。
また、美流孔(みるく)塚という乳がん封じの祈願塚もあった。
そのほか、近年、第二次伽藍整備ということで、新しい建物も建っているようである。
この後は、境内を出て、六条大路を渡って、大安寺の東西の両塔跡を訪ねることとしよう。
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