
阪和線の上野芝駅から、東へ坂道を登っていくと住宅街の中に文殊塚古墳がある。他の百舌鳥古墳群の古墳とは違って、別の台地上に築かれている古墳である。

文殊塚古墳は、2段築造の前方後円墳であり、発掘調査等によると、墳丘長は、59.1m、後円部径36.3m、後円部高さ5メートル、前方部幅27.3m、高さ4mと想定されている。墳丘は、一部防空壕や後世の住宅開発で一部改変を受けている。また、近年の調査で、後円部に濠らしき遺構が見つかっている。

墳丘の周囲は金網のフェンスで囲まれており、中に入ることはできないようになっている。金網にへばりつくように写真を撮っていたので、古墳のフェンス沿いに駐車している人に怪訝な顔をされてしまった。また、フェンスの周りを住宅が建っているので、残念ながら、写真に全体を収めることが出来る場所がなかった。街なかにある古墳は仕方ないよね。

また、文殊塚古墳の北側は、住宅開発のために削り取られたのか崖のようになっている。

ちなみに、文殊塚古墳の築造された時期としては、出土した埴輪から5世紀の中ごろと考えられている。
文殊塚古墳から、再び上野芝駅に戻って阪和線の下をくぐって西へ歩き始めると百舌鳥ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)の拝所が右手に見える。そこから、南に住宅街に入っていくと、そこはかつて大塚山古墳と呼ばれる古墳があった場所である。
大塚山古墳については、墳丘長168m、後円部径102m、後円部高さ14.5m、前方部幅114m、前方部高さ11・5mの規模であり、百舌鳥古墳群では5番目大きさであったが、戦後、昭和30年前後に、土取りなどにより破壊されてしまった。この古墳の破壊の経緯は、森浩一氏の著書「古墳の発掘」にも詳しく書かれている。戦後最大級の古墳の破壊であったと言われる。なお、大塚山古墳は、三段築造でくびれ部には造り出しがあり、周濠が巡っていた。埋葬施設は、前方部と後円部に4つづつあり、副葬品として、刀剣や鉄製の甲冑、短甲などが見つかっている。古墳の築造年代としては5世紀の初頭と考えられ、近くにある百舌鳥ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)とほぼ同時期に造られたと考えられている。
大塚山古墳の跡については、前方部と後円部が接合するくびれ部のあたりにポケットパークが作られており、古墳跡を示す案内板が建っている。

大塚山古墳の破壊は、戦後の混乱期、まだ文化財行政などという言葉もない時代の出来事であったが、今なお、古墳の破壊は続いている。100基以上もあったといわれる百舌鳥古墳群の古墳も今では40基ほどしか残っていない。1000年の時を経て残ってきたものである。できるだけ保存をして後世に伝えていく努力すべき時なのかもしれない。

大塚山古墳のあった場所を歩くと、道路が丸く半円を描くようにカーブしているところがある。

大塚山古墳の後円部の名残である。百舌鳥古墳群の中でも5番目に大きかった古墳の姿をかろうじてとどめているのがこの道路のカーブであることが物悲しい気がする。最後に、大塚山古墳は、1986年まで前方部の裾の一部が残っていたが宅地造成にて完全に消滅した。
大塚山古墳のあった場所から少し西へ行くと、住宅街の中にこんもりと木が茂っている場所がある。これがかぶと塚古墳であり、もとは、全長50mほどの帆立貝型古墳であったが、後円部と街路と住宅地で削平されており、前方部だけが民有地の中に残っている。

かぶと塚古墳は大塚山古墳とかなり近い位置にあるため、大塚山古墳の陪冢ではないかとも考えられている。

なお、かぶと塚古墳は、平成26年の史跡の追加指定からも漏れており、また、古墳自体の調査もなされていない状況である。

今後、何らかの形で保存を考えてほしい古墳である。

文殊塚古墳は、2段築造の前方後円墳であり、発掘調査等によると、墳丘長は、59.1m、後円部径36.3m、後円部高さ5メートル、前方部幅27.3m、高さ4mと想定されている。墳丘は、一部防空壕や後世の住宅開発で一部改変を受けている。また、近年の調査で、後円部に濠らしき遺構が見つかっている。

墳丘の周囲は金網のフェンスで囲まれており、中に入ることはできないようになっている。金網にへばりつくように写真を撮っていたので、古墳のフェンス沿いに駐車している人に怪訝な顔をされてしまった。また、フェンスの周りを住宅が建っているので、残念ながら、写真に全体を収めることが出来る場所がなかった。街なかにある古墳は仕方ないよね。

また、文殊塚古墳の北側は、住宅開発のために削り取られたのか崖のようになっている。

ちなみに、文殊塚古墳の築造された時期としては、出土した埴輪から5世紀の中ごろと考えられている。
文殊塚古墳から、再び上野芝駅に戻って阪和線の下をくぐって西へ歩き始めると百舌鳥ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)の拝所が右手に見える。そこから、南に住宅街に入っていくと、そこはかつて大塚山古墳と呼ばれる古墳があった場所である。
大塚山古墳については、墳丘長168m、後円部径102m、後円部高さ14.5m、前方部幅114m、前方部高さ11・5mの規模であり、百舌鳥古墳群では5番目大きさであったが、戦後、昭和30年前後に、土取りなどにより破壊されてしまった。この古墳の破壊の経緯は、森浩一氏の著書「古墳の発掘」にも詳しく書かれている。戦後最大級の古墳の破壊であったと言われる。なお、大塚山古墳は、三段築造でくびれ部には造り出しがあり、周濠が巡っていた。埋葬施設は、前方部と後円部に4つづつあり、副葬品として、刀剣や鉄製の甲冑、短甲などが見つかっている。古墳の築造年代としては5世紀の初頭と考えられ、近くにある百舌鳥ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)とほぼ同時期に造られたと考えられている。
大塚山古墳の跡については、前方部と後円部が接合するくびれ部のあたりにポケットパークが作られており、古墳跡を示す案内板が建っている。

大塚山古墳の破壊は、戦後の混乱期、まだ文化財行政などという言葉もない時代の出来事であったが、今なお、古墳の破壊は続いている。100基以上もあったといわれる百舌鳥古墳群の古墳も今では40基ほどしか残っていない。1000年の時を経て残ってきたものである。できるだけ保存をして後世に伝えていく努力すべき時なのかもしれない。

大塚山古墳のあった場所を歩くと、道路が丸く半円を描くようにカーブしているところがある。

大塚山古墳の後円部の名残である。百舌鳥古墳群の中でも5番目に大きかった古墳の姿をかろうじてとどめているのがこの道路のカーブであることが物悲しい気がする。最後に、大塚山古墳は、1986年まで前方部の裾の一部が残っていたが宅地造成にて完全に消滅した。
大塚山古墳のあった場所から少し西へ行くと、住宅街の中にこんもりと木が茂っている場所がある。これがかぶと塚古墳であり、もとは、全長50mほどの帆立貝型古墳であったが、後円部と街路と住宅地で削平されており、前方部だけが民有地の中に残っている。

かぶと塚古墳は大塚山古墳とかなり近い位置にあるため、大塚山古墳の陪冢ではないかとも考えられている。

なお、かぶと塚古墳は、平成26年の史跡の追加指定からも漏れており、また、古墳自体の調査もなされていない状況である。

今後、何らかの形で保存を考えてほしい古墳である。
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