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春の桂坂古墳群の一般公開を見に行った帰りに、周辺の陵墓や古墳をいくつか見て回った。
桂坂古墳群の所在する場所は、京都市の西京区御陵大枝山町というところで、近年に開発されたニュータウンである。国際日本文化研究センターや京都大学の桂キャンパスも近くにある。
比較的新しい住宅地を抜けると、一気に周りの雰囲気は変わる。京都市といっても、かなり市街地とは雰囲気が違う。普通の少し田舎の風景になる。
小畑川沿いにある府道142号線を西へ向かって歩いていく、歩いていると徐々に道が狭くなり、ちょっと人里離れたような場所に、大枝陵への参道があった。
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かなり急勾配の石段を登っていく。とにかくつづら折りになった参道が長い。
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10分ぐらい歩いただろうか、息遣いが激しくなる中、道が平坦になり、少し歩くと拝所が見えた。おそらく丘陵の一番高い所に所在しているようである。
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これが桓武天皇御母御陵である。そして、地図等にはよくこの名称がでているのだが、拝所の制札を見ると「光仁天皇夫人贈太皇太后天高知之子姫尊(あめたかしるひのこひめのみこと)大枝陵」となっている。正式な名称で言うとこうなるのかな。標高は、およそ200mほどとのこと、膝に来たよ。
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ただ、一般に高野新笠という名前の方が良く知られていると思う。奈良朝最後の天皇、光仁天皇の夫人となり、桓武天皇や早良親王の母である。父は百済の王族の血を引くと伝えられる和乙継、母は、土師真妹と呼ばれた人である。
高野新笠は、生年は不明、789(延暦8)年に薨去。この地に葬られたと伝わる。
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陵は円墳である。ただし、平安時代のものかはわからない。どうもこの辺りには群集墳がいくつもある様子であり、その一つかもしれない。
※京都市の遺跡地図では、この御陵の周辺には、沓掛古墳群という群集墳が記載されている。
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しかし、こんな場所になぜ陵が築かれたのだろうか?地図を見ると近くに淳和天皇御母藤原旅子陵や桓武天皇皇后陵がある事がわかる。
高野新笠がなくなった延暦8年は、都は長岡京にあった。長岡京に遷都した桓武天皇は、都の北に、陵園を築こうと考えた結果、このようになったのではないかとも言われているが、はっきりはしない。何らかの関係はあったと考える方が自然ではある。
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拝所までに道は比較的綺麗に整備されているが、おそらくここを訪れる人はまれだろうなあ。
よほどの酔狂な人だろう。(笑)
この後は、同じく府道142号線を東に進んで、淳和天皇御母藤原旅子陵に向かった。
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