JR桃山駅から次にめざす明治天皇陵は、線路を渡って東へほぼ一直線である。
参道の玉砂利の上を小さな音を立てながら前に進んでいく。この地はもともとは豊臣秀吉の居城伏見城があった場所である。そのためか少し上り坂になっている。
人もいない静かな空間になっている。しばらく歩いて、道のわきを見ると大きな石が何十個も無造作に置かれている。
石をよく見ると石を加工するための矢穴や家紋のような刻印があるものがある。
伏見城に使用された石材がここに集められて置かれているようである。確か近くの御香宮神社の境内にもこういった石材があったように記憶している。
ちなみに伏見城は、三度に渡って築城されており、一度目は豊臣秀吉の隠居のための住まいとして建てられた指月伏見城、二度目が慶長伏見地震によって、指月伏見城が倒壊した後、木幡山に再建された伏見城。ここで1598年豊臣秀吉は、ここで亡くなっている。その後は徳川家康がここに入り、政務を取た。そして、三度目は関が原の戦いで西軍石田三成に攻められて落城し、焼失するも、徳川家康により再建される。
その後、1619年に廃城とされた。廃城址は、桃の木が植えられ、桃山と呼ばれるようになったという。安土桃山時代という時代区分の名は、この地に由来する。
ちょっと話が横にずれたので、元に戻そう。
緩やかな登り道となっている参道を歩いていくと、右手に宮内庁書陵部の建物があった。
御陵印はここでもらえるようである。ここまで来ると拝所まではあと少しである。
これが、明治天皇陵である。ここは、伏見城の本丸があったところであるらしい。
少し明治天皇に触れると、1852年生まれ、父、孝明天皇の後を受けて1867年に践祚した。同年10月徳川慶喜による大政奉還があり、同じく12月に王政復古の大号令を発し、新政府を樹立した。翌年以降は、明治改元と一世一元制の制定、東京遷都などが行われ、明治天皇を中心とした新政府による中央集権体制の基盤が築かれた。
1889年には大日本帝国憲法を公布して広汎な天皇大権が規定された。1911年に崩御、明治天皇とされた。
東京で崩御した明治天皇は、遺命により、この地に埋葬された。古代の天皇のように古墳の形、特に上円下方墳にした墳丘を築き、その中に石槨が作られて埋葬されている。この形式は先代の孝明天皇から始まったものである。
これは、古代天皇制の葬法を模倣して造られたもので、近代天皇制を確立するための一つのツールであったと考えられる。また、京都に都を移した桓武天皇の陵が傍にあったこともこの地が選ばれた理由であろう。
この拝所がある場所も真南には、大階段がある。上から下までで230段もあるらしい。よく周辺の学校の運動部がこの階段を登っている所をよく見かける。力が有り余っている若者たちにはいいだろうが、中年、熟年の私が昇り降りするのはかなり無理がありそうだ。やめておこう。
秋の頃とかは紅葉で綺麗かもしれない。
この後は、元の参道を引き返し、途中から桓武天皇陵へ向かうことにしよう。
※実は、明治天皇陵の東に皇后である昭憲皇太后伏見桃山東陵があるのだが、この時すっかり忘れていた。ポンコツな話である。
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