お酒の王様「月桂冠」で知られる大倉酒造記念館は大勢の観光客で賑わっているが、そのすぐ向かいにある松林院という小さなお寺がある。
お寺の前を通る人のほとんどが足を止めることのない様な寺院なのだが、実は、幕末、寺田屋の女将として、「竜馬がゆく」などの司馬遼太郎の幕末を舞台にした小説にしばしば登場するお登勢の墓があることで知られている。
ちなみに寺院は非公開なので、中に入ることはできない。隣の月桂冠の記念館の駐車場から窺い知るのみである。
松林院は、室町時代の初め頃、後崇光太上天皇貞成親王に仕えた女官が上皇の菩提を弔うためにこの地に仏堂を上鳥羽の寺院から移築したことに始まるという。
そして、その後崇光院の墓所は、松林院の裏側にあり、拝所には、この道の一本裏の道から行かないといけない。
さっそく、ぐるっと裏に道に回り込むと、道路沿いの右手に制札があり、短い参道がある。元は松林院の中にあったのかもしれない。
制札には後崇光太上天皇伏見松林院陵とある。後崇光太上天皇とは、聞きなれない名前である。この「京都洛南の天皇陵めぐり①」で訪ねた崇光天皇と関係があるのかもと思われた方、大正解。崇光天皇の孫にあたり、同じ陵に埋葬されたとされる治仁王の子であり、伏見宮の三代目にあたる人物である。
この人物は、後に102代天皇の後花園天皇の父となり、天皇の実父ということで、後崇光太上天皇という尊号を送られ、出家していたことから法皇と遇され、後崇光院とも呼ばれるようになった。
なので、この後崇光院の血筋が現在の天皇家として脈々と続いていることになる。
しかし、なぜわざわざ傍系の伏見宮家から天皇家を継いだのかという事だが、後花園天皇の前の天皇、称光天皇には子がなく、また、弟の小川宮も早逝しており、称光天皇の崩御後、直系が途絶えたことから、持明院統光厳天皇流で唯一の男児である貞成親王の子である彦人王が、称光天皇の父、後小松天皇の猶子となり、天皇となったということである。
ただ、ここで後小松天皇の子がいなかったのかというと、実はいたのである。
ご存じ、室町時代の高僧、アニメなどでもよく知られている一休禅師が、後小松天皇の皇胤であったと伝わる。(後花園天皇も一休が皇胤であることは知っていたようで、それと伝わる文章を書いている。)
ただ、一休は早いうちに出家しており、皇位継承の対象とは考えられていなかったようだ。
状況によっては、もしかしたら一休さんが天皇になっていたのかもしれない。
以上のようなことを考えると、歴史というのは不思議なものだなあと思う。
そして、後崇光院の日記が「看聞日記」として、室町時代の京都をよく伝える資料として知られている。
最後に、後崇光院がこの地に埋葬されたのかどうかはよくわからない。先の大光明寺陵のように、この辺りに埋葬されたのではないかというレベルで治定されたのではないかと思う。
ということで、京都洛南の天皇陵めぐりの伏見編については今回で終了である。
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