大仏殿を出て、手向山八幡宮へ向かう。途中、参道から右手を見ると、昨年の秋に現地説明会を見に来た東塔院跡の基壇がすっかり埋め戻されていた。(「東大寺東塔院 発掘調査現地説明会」参照)
手向山八幡宮は、紅葉の名所であり、菅原道真が「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んだ歌は、百人一首に採録されており、著名なものとなっている。境内には、菅原道真の腰掛石と歌碑が建っている。
調べてみると、天平勝宝元年(749年)に宇佐八幡宮から東大寺の守護神として勧請された。もともとは別の位置のあったものを、北条時頼が建長2年(1250年)にこの地に再建したという。ということは、道真の時代にはこの地には手向山八幡宮は、まだ建てられていない。よく読めば、手向山の紅葉の美しさを歌っているので、この地に八幡宮が建っている建っていないかは関係ないか。
手向山八幡宮から、三月堂の前を通って、二月堂へ向かう。三月堂は、少し前に拝観させていただいたので今回はパス。(「「大和路」をだどる旅 ⑦ 東大寺三月堂」参照)
旧暦の二月にお水取りの儀式が行われることから、二月堂と呼ばれるようになった。建物は、国宝に指定されており、江戸時代の寛文9年(1669年)に再建されたものである。二月堂や三月堂がある辺りは上院と呼ばれ、東大寺の前身である金鍾寺があった場所であるという。
二月堂に登る回廊の石段の中には、文様が刻まれているものがある。
唐草やら亀甲、格子などさまざまである。回廊を登っていくと二月堂である。傾斜地に建てられておるため、舞台造のような建物である。(懸造と言うんだそうだ。)
二月堂の外陣からは、奈良の街がよく見える。絶景ポイントの一つであろう。
二月堂から、反対側の回廊を下る。何か厳粛な雰囲気がいい。
ここから、東大寺のひそかな人気コース(?)、裏参道に入る。
土塀と石畳の道がいかにも奈良らしい風情を醸し出しているような気がするので、昔から、東大寺に来ると通るようにしている。春の桜の時期、秋の紅葉の頃は、本当にいい感じの気分で歩ける場所である。大湯屋を横に見て、大仏殿の裏を通ると講堂跡に出る。
講堂は、奈良時代に建てられたが、度重なる兵火等により焼失し、永正5年(1505年)を最後に再建がされることはなかった。
芝生の中に、礎石が一列に整然と並んでいる。
講堂跡からは、大仏池を通って、転害門へ出ることにした。
転害門では、門を眺めていると、近くの観光センターの人がパンフレットを持ってきてくれた。転害門の不思議が書いてあったと思うのだが、パンフレットをどこかにしまいこんだまま、不明になってしまった。
たぶん、基壇の石の色が違うこともその一つだったと思う。
わかったら、また、このブログで紹介しましょう。
【追記】
判明しました。
①柱に残る矢じりや銃弾の跡
②赤い基壇(一部よその寺院から持ってきたらしい。)
③節だらけの柱(写真家土門拳おススメ)
④石段に穿たれた不思議な穴
⑤はずされた門扉
もやもやが解消されましたね(笑)
手向山八幡宮は、紅葉の名所であり、菅原道真が「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んだ歌は、百人一首に採録されており、著名なものとなっている。境内には、菅原道真の腰掛石と歌碑が建っている。
調べてみると、天平勝宝元年(749年)に宇佐八幡宮から東大寺の守護神として勧請された。もともとは別の位置のあったものを、北条時頼が建長2年(1250年)にこの地に再建したという。ということは、道真の時代にはこの地には手向山八幡宮は、まだ建てられていない。よく読めば、手向山の紅葉の美しさを歌っているので、この地に八幡宮が建っている建っていないかは関係ないか。
手向山八幡宮から、三月堂の前を通って、二月堂へ向かう。三月堂は、少し前に拝観させていただいたので今回はパス。(「「大和路」をだどる旅 ⑦ 東大寺三月堂」参照)
旧暦の二月にお水取りの儀式が行われることから、二月堂と呼ばれるようになった。建物は、国宝に指定されており、江戸時代の寛文9年(1669年)に再建されたものである。二月堂や三月堂がある辺りは上院と呼ばれ、東大寺の前身である金鍾寺があった場所であるという。
二月堂に登る回廊の石段の中には、文様が刻まれているものがある。
唐草やら亀甲、格子などさまざまである。回廊を登っていくと二月堂である。傾斜地に建てられておるため、舞台造のような建物である。(懸造と言うんだそうだ。)
二月堂の外陣からは、奈良の街がよく見える。絶景ポイントの一つであろう。
二月堂から、反対側の回廊を下る。何か厳粛な雰囲気がいい。
ここから、東大寺のひそかな人気コース(?)、裏参道に入る。
土塀と石畳の道がいかにも奈良らしい風情を醸し出しているような気がするので、昔から、東大寺に来ると通るようにしている。春の桜の時期、秋の紅葉の頃は、本当にいい感じの気分で歩ける場所である。大湯屋を横に見て、大仏殿の裏を通ると講堂跡に出る。
講堂は、奈良時代に建てられたが、度重なる兵火等により焼失し、永正5年(1505年)を最後に再建がされることはなかった。
芝生の中に、礎石が一列に整然と並んでいる。
講堂跡からは、大仏池を通って、転害門へ出ることにした。
転害門では、門を眺めていると、近くの観光センターの人がパンフレットを持ってきてくれた。転害門の不思議が書いてあったと思うのだが、パンフレットをどこかにしまいこんだまま、不明になってしまった。
たぶん、基壇の石の色が違うこともその一つだったと思う。
わかったら、また、このブログで紹介しましょう。
【追記】
判明しました。
①柱に残る矢じりや銃弾の跡
②赤い基壇(一部よその寺院から持ってきたらしい。)
③節だらけの柱(写真家土門拳おススメ)
④石段に穿たれた不思議な穴
⑤はずされた門扉
もやもやが解消されましたね(笑)
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