東大寺転害門の前を南北に通っている道は、「京街道」と呼ばれ、大和の国と山城の国を結ぶ古代からの街道である。転害門から京街道を北へ向かって歩いていくと、佐保川を越えた辺りから急に坂がきつくなる。少し行くと北山十八間戸と呼ばれる建物があり、その建物の三叉路を左側に行くと建物の間に、夕日地蔵と呼ばれる石仏が建っている。
この石仏は、永正6年(1509年)に制作されたという銘が残っており、今から500年ほど前の戦国時代に造られたものである。石仏の敷地の隅に會津八一の歌を書いた木札が建っている。
木札には、「ならざかの いしのほとけの おとがいに こさめながるる はるはきにけり」と書かれている。この日は、好天だったので残念ながら、歌に書かれているような仏様の顔には小雨が流れていなかった。
夕日地蔵から少し北に行くと般若寺に着く。道を挟んだ向かいには牧場があり、遠く乳牛の姿も見える。
お寺の周りは、住宅地となっていて、突然、般若寺の楼門が現れる。
般若寺の楼門は、入母屋造、上層3間、下層1間の鎌倉時代の建築であり、国宝に指定されている。想像していたよりも実際は小さく感じた。こわもてな風貌だけど実は・・・と言う感じかな。平家物語では、平清盛の息子重衡が、斬首になり、般若寺の門前で梟首されたとある。そのイメージがあるので、豪壮なものなのかなと一人で想像していた次第。詳しく見ると、楼門自体は、源平の内乱が終結した後、再建されたものであるため、重衡の首が、晒された時代のものではないようだ。
般若寺の境内の楼門に近くに、比較的新しい平重衡の供養塔が建っている。
般若寺の境内には、楼門を通り過ぎたところに駐車場があり、そこから入っていくことになる。般若寺の創建は明らかではない、境内からは、奈良時代の古瓦が出土しているので、おそらく奈良時代には創建されていたのであろうと考えられている。近代以降は、廃仏毀釈などにより荒れ果て、無住の時代もあったらしい。
周囲は、民家が立て込んでいるのだが、ここは、あまり人の来ない閑静な場所になっている。
そして、境内には、石仏や供養塔、句碑等が多く建っている。
この雰囲気は、いかにも鄙びた奈良の古寺と言う感じで好ましい気がする。
鍾楼の辺りには、正岡子規の句「般若寺の釣鐘細し秋の風」の句碑が草むらの中にあった。
正岡子規は、明治28年(1895年)28歳の時に大阪、奈良と遊覧している。東大寺や法隆寺に加えて、般若寺にもその時に立ち寄っているのだろう。有名な「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の句もこの旅行の時に詠まれたものである。
この句に詠まれた釣鐘は、この鐘なんだろうか。
その他、藤原頼長や大塔宮護良親王たちの供養塔もある。いずれもこの奈良坂にかかわりがありながら非業の死を遂げた人物である。
境内には、十三重石塔や経蔵、本堂などがある。特に十三重石塔は、周囲をコスモスで彩られている風景で著名である。訪れた時は、これからコスモスの苗を植えようかという感じだった。ちなみに十三重石塔は、鎌倉時代宋から来日した伊行末により建立されたもの。国の重要文化財になっている。一層目の4面には、阿弥陀如来や弥勒菩薩などが彫刻されている。
また、境内に片隅にひっそりと立っている経蔵も鎌倉時代の建築物である。もともとは、経蔵として造られたものではないらしい。
これも重要文化財に指定されている。
また、本堂の手前右側に傘塔婆が2基建っている。これは、伊行末の息子の伊行吉により造られたもので、もともとは、般若寺の近くの墓地にあったものが写されたものであるらしい。平重衡の墓という言い伝えもあったようだ。
最後に、般若寺の本坊(?)の前に建っている。会津八一の歌碑。
夕日地蔵と同様に、「ならざかの いしのほとけの おとがいに こさめながるる はるはきにけり」の歌が刻まれている。この歌は、「南京新唱」に「奈良坂にて」の題で収められており、般若寺を詠んだというよりは、奈良坂の風景を詠んだという感じである。
般若寺を出て、またもと来た道を引き返していくと、史跡北山十八間戸という建物がある。
鎌倉時代に西大寺の僧、忍性らがハンセン氏病患者などを保護、救済した施設であると伝えられる。現在の建物は江戸時代に再建されたものであるらしい。十八間戸とは、2畳程度の部屋が18戸あることに基づいている。
全長38mの細長い建物であり、一番左の建物が少し違うのは仏壇になっているかららしい。
中は公開されていないのでよくはわからない。
また、北山十八間戸の前の三叉路を般若寺とは違うもう一本の方へ行くと奈良少年鑑別所がある。
正門は、煉瓦造りの明治時代の建築物である。「じゃりん子チエ」のテツが少年時代に奈良少年鑑別所に入所していたというエピソードで知られている。(たぶん)
この辺りは、歴史の陰影のある場所のようで、新旧様々なものがある。
そうそう、北山十八間戸の前には、こんな不思議な煉瓦造りの建物がある。
水道局の関連のものであるようだ。こんなところにも歴史を感じさせる。
早朝の奈良見学もここで終了。午前中でこれだけのものが見れたというのはスゴイ。やっぱり早起きは三文の得ですね。
この石仏は、永正6年(1509年)に制作されたという銘が残っており、今から500年ほど前の戦国時代に造られたものである。石仏の敷地の隅に會津八一の歌を書いた木札が建っている。
木札には、「ならざかの いしのほとけの おとがいに こさめながるる はるはきにけり」と書かれている。この日は、好天だったので残念ながら、歌に書かれているような仏様の顔には小雨が流れていなかった。
夕日地蔵から少し北に行くと般若寺に着く。道を挟んだ向かいには牧場があり、遠く乳牛の姿も見える。
お寺の周りは、住宅地となっていて、突然、般若寺の楼門が現れる。
般若寺の楼門は、入母屋造、上層3間、下層1間の鎌倉時代の建築であり、国宝に指定されている。想像していたよりも実際は小さく感じた。こわもてな風貌だけど実は・・・と言う感じかな。平家物語では、平清盛の息子重衡が、斬首になり、般若寺の門前で梟首されたとある。そのイメージがあるので、豪壮なものなのかなと一人で想像していた次第。詳しく見ると、楼門自体は、源平の内乱が終結した後、再建されたものであるため、重衡の首が、晒された時代のものではないようだ。
般若寺の境内の楼門に近くに、比較的新しい平重衡の供養塔が建っている。
般若寺の境内には、楼門を通り過ぎたところに駐車場があり、そこから入っていくことになる。般若寺の創建は明らかではない、境内からは、奈良時代の古瓦が出土しているので、おそらく奈良時代には創建されていたのであろうと考えられている。近代以降は、廃仏毀釈などにより荒れ果て、無住の時代もあったらしい。
周囲は、民家が立て込んでいるのだが、ここは、あまり人の来ない閑静な場所になっている。
そして、境内には、石仏や供養塔、句碑等が多く建っている。
この雰囲気は、いかにも鄙びた奈良の古寺と言う感じで好ましい気がする。
鍾楼の辺りには、正岡子規の句「般若寺の釣鐘細し秋の風」の句碑が草むらの中にあった。
正岡子規は、明治28年(1895年)28歳の時に大阪、奈良と遊覧している。東大寺や法隆寺に加えて、般若寺にもその時に立ち寄っているのだろう。有名な「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の句もこの旅行の時に詠まれたものである。
この句に詠まれた釣鐘は、この鐘なんだろうか。
その他、藤原頼長や大塔宮護良親王たちの供養塔もある。いずれもこの奈良坂にかかわりがありながら非業の死を遂げた人物である。
境内には、十三重石塔や経蔵、本堂などがある。特に十三重石塔は、周囲をコスモスで彩られている風景で著名である。訪れた時は、これからコスモスの苗を植えようかという感じだった。ちなみに十三重石塔は、鎌倉時代宋から来日した伊行末により建立されたもの。国の重要文化財になっている。一層目の4面には、阿弥陀如来や弥勒菩薩などが彫刻されている。
また、境内に片隅にひっそりと立っている経蔵も鎌倉時代の建築物である。もともとは、経蔵として造られたものではないらしい。
これも重要文化財に指定されている。
また、本堂の手前右側に傘塔婆が2基建っている。これは、伊行末の息子の伊行吉により造られたもので、もともとは、般若寺の近くの墓地にあったものが写されたものであるらしい。平重衡の墓という言い伝えもあったようだ。
最後に、般若寺の本坊(?)の前に建っている。会津八一の歌碑。
夕日地蔵と同様に、「ならざかの いしのほとけの おとがいに こさめながるる はるはきにけり」の歌が刻まれている。この歌は、「南京新唱」に「奈良坂にて」の題で収められており、般若寺を詠んだというよりは、奈良坂の風景を詠んだという感じである。
般若寺を出て、またもと来た道を引き返していくと、史跡北山十八間戸という建物がある。
鎌倉時代に西大寺の僧、忍性らがハンセン氏病患者などを保護、救済した施設であると伝えられる。現在の建物は江戸時代に再建されたものであるらしい。十八間戸とは、2畳程度の部屋が18戸あることに基づいている。
全長38mの細長い建物であり、一番左の建物が少し違うのは仏壇になっているかららしい。
中は公開されていないのでよくはわからない。
また、北山十八間戸の前の三叉路を般若寺とは違うもう一本の方へ行くと奈良少年鑑別所がある。
正門は、煉瓦造りの明治時代の建築物である。「じゃりん子チエ」のテツが少年時代に奈良少年鑑別所に入所していたというエピソードで知られている。(たぶん)
この辺りは、歴史の陰影のある場所のようで、新旧様々なものがある。
そうそう、北山十八間戸の前には、こんな不思議な煉瓦造りの建物がある。
水道局の関連のものであるようだ。こんなところにも歴史を感じさせる。
早朝の奈良見学もここで終了。午前中でこれだけのものが見れたというのはスゴイ。やっぱり早起きは三文の得ですね。
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