飛鳥の古墳でようやく石舞台古墳の登場である。今更の感もあるのだけれど、めずらしく観光客がほとんどいない状態で写真を撮ることができたので、ここは意を決して取り上げることにする。
たぶんなのだけど、これまでいくつもの古墳を訪ね歩いているが、一番最初は石舞台古墳であったような気がしている。小学生のころ、父に連れられて何度となく飛鳥に来ているのだけれど、その時間違いなく石舞台古墳に入っている。当時は、古墳の敷地内に入ると、解説の放送が流れていたと記憶している。ただ、そのころは、まだ周囲は現在のような公園にはなっていなかったと記憶している。
それから40年は経っているが、飽きずに何回もこの古墳を訪れている。その間、子どもたちも連れてきているので、親子三代で来ているわけだ。残念なことに、子どもたちは、古墳にあまり興味を持つことなく、大きくなってしまった。
さて、石舞台古墳であるが、一辺50mの方墳であり、周囲を幅約8mの周濠と幅7mの外堤が巡っている。墳丘の斜面には、貼石は施されており、草の間からそれらしきものは観察することができる。
巨大な横穴式石室の中には、入ることができる。石室を覆っていた封土は早くに失われており、江戸時代にはすでにこの状態であったようだ。石舞台の名称は、石の上で狐が踊っていた伝承にちなむとされているが、その伝承自体、実際にあったのかどうかという話もあるようだ。
話はそれるが、漫画家の手塚治虫は、火の鳥ヤマト編で石舞台古墳を物語の導入部で登場させており、なぜこういう古墳になったのかという物語を、埴輪創造神話と絡めて創り出している。
石室の内部は、かなり大きい。全長19.4m、玄室長7.7m、幅3.5m、高さ4.7m、羨道長11.7m、幅2.6mとなっており、三段に組まれた石室のスケールの大きさには圧倒されるものがある。石室に使われた石材の表面は、平らに加工されている。
石室の石材は、近くを流れる冬野川の上流に求められており、おそらく修羅などを使ってこの場所まで運んだと考えられている。天井石の一つは77tもあるらしく、大規模な土木工事であったのだろう。
これだけの古墳であるのだから、相当権力のあったものの墓所であったのだろう。被葬者として有力なのが蘇我馬子である。飛鳥時代の前半の政治を支配していた有力な豪族であり、この古墳の主としては妥当な気がする。ちなみに石舞台古墳の築造が7世紀の初め頃であり、蘇我馬子が亡くなったのが、724年と伝えられることからすると、そう大きな違いはなさそうである。
玄門の天井石などは、その大きさに圧倒される。おそらくたった一人の権力者のためにこれだけのものが造られたのである。すごいことである。
発掘調査は、昭和8年と10年に京都帝国大学によって行われ、貼石列、空堀、外提などが見つかっている。石棺の破片もあったようだ。
外提の上に、復元された家形石棺が置かれている。
どこまで忠実に復元されたものなのかはわからない。
石舞台古墳は、飛鳥の代表的な景観を作っているものとして、四季折々の姿を見せている。最近では、飛鳥光の回廊というイベントではライトアップまでされている。
長年、多くの人々に親しまれている古墳というのも、なかなか少ないような気がする。これからもこういった形で受け継がれていってほしいと思う。
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