飛鳥の万葉文化館へ行く時、奥山から岡寺を通って石舞台古墳の方へ抜ける県道15号線を使っていくことが多い。万葉文化館前の交差点の周辺に万葉歌碑が1基あるということは知っていたのだが、交差点の周辺を見回してみてもその姿も影も見えない。何度となくその周辺を通るたびに気にはしているのだが、見つけることはできなかった。
そして、先日万葉文化館から飛鳥資料館へ向かって歩いていった時に、ようようにして見つけることができた。その出会いは一瞬であった。車道に沿って歩くのではなく、道路から一段下の遊歩道を歩いていくと、遊歩道の右手に歌碑があった。これは、案外盲点だなあと合点がいった。
なかなかこの遊歩道は歩かないわ。
歌碑には、「大原の この市柴の いつしかと 我が思ふ妹に 今夜逢へるかも」と記されている。大意としては、大原のこの市柴原のいつになったら逢えるのかと思っていたあなたに今夜やっと逢えたよということが、その横に置かれている石に刻まれている。
大原の地に、通う女性がいたのだろうか。大原と言うと、天武天皇と藤原夫人との間で歌われた歌が有名であるし、歌碑の近くにある大原神社には、藤原鎌足の生誕地と伝わる。ちなみに藤原夫人は、鎌足の娘五百重娘のことである。
大原のあたりは中臣氏もしくは藤原氏との関係が深そうなところではある。歌碑のある場所から南西の方角を眺めると、藤原鎌足の母と伝えられる小さな古墳状の高まりを見ることができる。
この大原の里は、藤原氏との関係は色濃そうではあるが、一方、志貴皇子はと言うと、天智天皇の第7皇子ではあるものの、母が越道君伊羅都売という人でかなり身分が低いため、皇位継承の対象とはならなかった。そのことが後に幸いとなったのは言うまでもないことではあるが、結局、志貴皇子の子孫が今も天皇家に繋がるのである。世の中、どこでどうなるのかわからないものだね。
志貴皇子のお妃は、天武天皇の皇女で託基皇女と呼ばれる女性。忍壁親王と同母妹である。この女性自体はあまり藤原氏と関係のなさそうだし、他のお妃の藤原氏の関係の人はいない。皇位継承と関係のなさそうな人だから、政略結婚の対象とならなかったのかもしれない。
この大原のあたりはあまり訪れる人もなく、落ち着いた風景を見せてくれる。こういう古き日本の風景を見ることができるのがこの大原の魅力なのであろう。
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