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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

京都の近代建築 梅小路蒸気機関車庫

2016-07-09 21:53:56 | 博物館へ行こう
 日本に鉄道が初めて走ったのは、東京の新橋と横浜間、明治5年、1873年のことである。関西には、その5年後、大阪と京都間が開通している。梅小路蒸気機関車館は、鉄道100周年を記念して梅小路機関車区の扇形の車庫を活用して造られた。当時、蒸気機関車の動態保存をしているところとしては、日本で唯一か所だけであった。
 僕も小学生の時に一度梅小路蒸気機関車館に来ている。その頃は、大阪から京都に行くというのはちょっとした旅行だったような気がする。そういえば、まだ京都市内には市電が走っていたなあ。

 現在、梅小路蒸気機関車館は閉館となり、京都鉄道博物館の中の一つとなって、今年の4月29日からリニューアルしている。

 

 そして、この地に来るのは、その小学生の時以来だから約40年ぶりというところかな。僕の興味としてはあまり興味のない新しい鉄道博物館部分は、すっ飛ばして蒸気機関車庫の方へ向かう。

 鉄道博物館から蒸気機関車庫の方へは直接つながっている。建物から出て、渡り廊下部分から機関車庫の全体が見えた時は、なかなかスケール感があってちょっとおおっと思ってしまう。

 

 扇形の車庫の中を、それぞれの区画から中心に向かって、19両の機関車が顔を向けて配置されている様は圧巻ではある。

 

 鉄道ファンでなくても、前のめりになってみてしまうかもしれない。

 構内では、蒸気機関車が客車を引いて白い煙をはきながら走っていた。SLスチーム号というのだそうだ。

 

 走っている姿は、僕は実際に見たことはないのだが、少し遠い昔を憶い起こさせる。近頃は昭和を彩った人たちが多く亡くなられ、昭和は遠くなりにけりという気にさせられる。

 

 蒸気機関車が実際に走っているのが見れるというのもいいのだが、実は、この機関車庫が、日本近代の名建築と言われており、国の重要文化財にも指定されている。
 建築されたのは、1914年である。1914年というと、年号で言えば大正3年、歴史的事件で言うと第1次世界大戦が勃発した年である。大正デモクラシーと言われる民主主義、自由主義の推進運動がおこる直前の社会であった。

 この時代の建築物は、煉瓦造が多かったのだが、この建物は早くも鉄筋コンクリートを導入している。

 建物の中を見てみると、鉄骨の様子などは、昔、テレビで見ていたウルトラセブンの地球防衛軍の戦闘機発射基地みたいな感じがする。

 

 構内に黒光りする蒸気機関車が横たわっている。重厚なその様子は、大正期のモダニズムを感じさせるものがある。

 

 この蒸気機関車庫に保存されている機関車の視線の中心になるターンテーブルも当時からのものであり、このターンテーブルも含めて重要文化財となっている。

 

 ターンテーブルの横には蒸気機関車が1台今にも動きそうな様子で置かれていた。

 

 8620型蒸気機関車というらしく、通常はSLスチーム号をけん引しているらしい。くしくもこの車庫ができた年と同じ1914年のものである。って簡単に言うけど100年前のものじゃない。すごいなあ。古いものでも丹精すれば長持ちするっていうことだよなあ。

 鉄道博物館の出口には、旧二条駅の駅舎が移築保存されている。1904年に京都鉄道の駅舎として建てられたものだという。1904年というと、これまた日露戦争が勃発した年で、まさに日本が富国強兵の道を突き進んでいた時代である。

 

 駅舎の2階部分は、平安京の大極殿を模しているとも言われている。現存する最古の木造駅舎である。学生時代は、毎日、この駅舎の前を通って衣笠にある立命館まで通ったものである。僕にとっては、懐かしい建物の一つである。

 京都鉄道博物館についてほとんど触れていないが印象に残った場所を一つ、スカイテラスからの風景はいい。

 東寺の五重塔の横を多くの電車が走っていく感じがスケールが大きい。

 

 また、ここから東を見ると京都タワーが見える。できた当時は何か物議を醸した建物であったが、すっかり京都の風景に溶け込んでいる。

 

 いいものである。

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