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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

方広寺跡発掘調査 現地説明会

2016-06-28 19:47:49 | 現地説明会
平成28年1月23日(土)
 今年度の最初の発掘調査の現地説明会である。前日、遅くまで飲んだからであろうか、ちょっとぼんやりとしていて説明会の場所を間違ってしまい、着いた時には1回目の説明の途中だった。
 方広寺は、ご存知の通り、豊臣秀吉が、文禄4年(1596年)に創建したお寺であり、豊臣秀吉の死後、方広寺の梵鐘の銘をめぐって、豊臣家と徳川家との間で紛争があり、このことが大坂の陣の引き起こすきっかけとなったとされる。ちなみのこの梵鐘はいまでも方広寺に残っている。

 さて、今回の発掘調査については、京都国立博物館の本館の改修工事に伴い行われたものであり、京都国立博物館の中に通常とは別に特別な出入口をつくられた。発掘調査では、方広寺の大仏殿の南側の回廊の一部と明治時代にこの地にあった恭明宮の遺構の一部が確認された。

 方広寺の大仏殿の大仏殿の南側の回廊については、礎石の据付穴が2列見つかっている。
 
 

 白い紐で柱穴の列を示している。柱列20と書かれているのが、中央の柱列、同じく柱列30と書かれているのが南側の柱列になるそうだ。回廊の構造としては、今回の調査区域では見つかっていないは、北側にもう一列あり、中央に塀があり、その両側に通路がある、複廊であったと考えられている。

 

 この回廊については、国立博物館の新館まで伸びており、新館のある場所に南門があったと考えられている。(ちなみに、回廊の柱を示すために、ずっと丸い印が水の中に続いている。)

 

 柱列30の外側に溝9とあるのが回廊の雨落ち溝の跡である。この溝については以前にも延長部が見つかっているとのこと。

 

 溝2については、大量の瓦で埋まっている状態で検出された。寛政10年(1798年)に大仏殿が落雷で焼失した後、不要になった瓦をここに捨てたのだろうと思われる。その南に溝3が見つかっている。溝3についても大量の瓦が見つかっている。
 「京の 京の 大仏つぁんは 天火で焼けてな 三十三間堂が 焼け残った ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン」というわらべ歌はこの時の火災を歌ったものらしい。(ちなみに小学校の音楽の時間に習った記憶があるなあ。)

 

 調査区域の西側回廊の柱列や溝を横切るような形で溝1がある。これが、明治時代の恭明宮の区画を示す溝であるとのこと。恭明宮については、僕もこの調査の説明で初めて知ったのだが、この場所に歴代天皇の位牌を祀る場所として明治4年(1871年)に建てられた建物で、しかし、その翌年には解体されている。
 その跡地に京都国立博物館が建てられることになった。

 最後に方広寺の軒平瓦とも丸瓦である。

 

 

 ともに桐の紋が入っており、豊臣家の栄華栄耀が忍ばれる。当時の方広寺の規模は大きく、現在の残っている国宝の三十三間堂もこの方広寺の寺域内の一部となっていたらしい。その名残が三十三間堂の南に残っている太閤塀である。

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