

法金剛院を後にして、まずは待賢門院の御陵を探してみようということで住宅街の中を歩いてゆくと、今宮神社が見える。その社の道を挟んで向かいに、上西門院統子内親王の御陵があった。周囲が住宅に囲まれている小さな御陵で花園東陵と言われている。道路から少し階段を上ったところにあったが、察するところ、おそらく昔はお墓の上には御堂が建っていたように思われる。

この人については、寡聞にてあまり知らないが、調べたところによると鳥羽天皇と待賢門院璋子との間に生まれた皇女で、後白河天皇の姉にあたる人である。後に後白河天皇の准母となっている。(その関係で、花園東陵と名づけられているのであろう。)このことだけでも、当時、この人が王家の中で重要な位置にあったことは十分に想定される。
また、待賢門院璋子の死後、法金剛院にて出家をされたことを考えると、もしかしたら待賢門院の財産も相続していたのかもしれない。その後、上西門院は、1189年64歳で、この法金剛院で亡くなっている。

この後、待賢門院を葬った花園西陵を探すのだが、なかなか行き道が見つからない。花園東陵の横の小道を入ってみると大きな駐車場に出た。駐車場から、西側に御陵を所在を示す鳥居が見えるのだが、そこにたどり着く道がなかなか見つからない。道を戻って、花園東陵から北に向かって上り、西に入っていくと、左手に民家の間に、宮内庁の看板が見える。5月の終わりというのに真夏のような陽ざしが照り付ける中、ようやく見つけた。その時には汗だくの状態。熱中症になるかという感じだった。

花園西陵と呼ばれる待賢門院藤原璋子の御陵は、きれいに剪定された静かな参道の先にあった。

待賢門院璋子については、鳥羽天皇の中宮として入内し、先の統子内親王の他、崇徳天皇や後白河天皇の母でもある。このように書くと、子どもが2人も天皇の位にのぼるなど権勢を極めたように見えるが、もっと実情は複雑だったりする。崇徳天皇については、鳥羽天皇の子どもではなく、鳥羽天皇の祖父白河法皇の子どもと言われ、鳥羽天皇からは「叔父子」と呼ばれていたという。待賢門院については、入内前は、白河法皇の養女となっていたことから、お手付きになっていたと言われている。その後、鳥羽天皇のもと入内し、5男2女を設けている。
のち、鳥羽天皇は、美福門院得子を寵愛するようになり、崇徳天皇を退位させ、美福門院の子近衛天皇を天皇の位につける。その間に、待賢門院は、美福門院を呪詛したという疑いをかけられ権勢を失い、1142年に法金剛院で出家し、そして1145年、三条高倉弟にて崩御した。この時鳥羽天皇は、待賢門院の臨終を看取り、その死に号泣したと伝えられる。その心中は、愛憎が入り混じったものだったのだろう。
そして、待賢門院藤原璋子の運命に翻弄された生涯は終わった。数奇な運命であった。その生涯を何とも物悲しい気がするのは私だけであろうか?
そして、1156年、崇徳上皇と後白河天皇の間で争われたのが、保元の乱である。運命は過酷である。もし、その時まで生きながらえていればどのように思ったであろう。

余談ながら、西行法師が、出家した原因の一つは、待賢門院に失恋したからだという話もある。そういえば大河ドラマ「平清盛」もその説に乗っかってたと思う。
待賢門院の花園西陵の横には、仁和寺宮墓があった。

確か、待賢門院の子、覚正法親王は仁和寺に入寺していたはずである。そういったつながりからなんだろうか?
ちなみに、待賢門院や美福門院といった院号は、平安時代、藤原道長の時代に道長の姉詮子に東三条院という院号を送ったことに始まるということである。
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