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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

西の京を歩く② ~喜光寺・菅原東遺跡~

2018-02-05 21:27:53 | 史跡を歩く
 菅原神社から南に行くと東大寺の大仏殿のミニチュア版のような建築物が見えてくる。昔、自動車で阪奈国道を通って奈良に行くときに、この建物が見え、一体この建物は何であろうとしばらく不思議に思っていた頃がある。いつの頃からか「試みの大仏殿」と呼ばれ、行基が、東大寺の大仏殿を建てるときにこの喜光寺の本堂を十分の一の雛形として建てたという伝承を知って、そういうことかと納得をしていた。ただ、今回の訪問が初めてである。あれほど前の道を通っていたのになあ。

 喜光寺は、行基の創建と伝えられ、行基が建立したと伝えられる四十九院の一つとされ、天平21年(749年)この地で死去したとされる。もともとは地名からか菅原寺と言われていたが、聖武天皇が参詣した時に本堂から不思議な光が放たれ、喜光寺と改められたという。

 昔は、室町時代に再建された本堂だけが、田んぼの中にポツンと建っているだけであったが、近年、南大門が再建され、伽藍の雰囲気が一新している。

 

 本堂は、寄棟造、単層裳腰付の仏堂で、一階の一間分が吹き抜けになっており、奈良時代の建物を意識した復古調の建築物である。この本堂は、国の重要文化財になっている。
 本堂には、平安時代の阿弥陀如来像が安置されている。

 

 境内には、万葉歌碑や會津八一の歌碑などがある。

 

 万葉歌碑には、石川郎女の「大き海の 水底深く 思いつつ 裳引き平し 菅原の里」という歌が刻まれている。石川郎女という名前を持った女性は、万葉集の中に何人もいるのだが、この女性は、藤原宇合の次男で藤原宿奈麻呂(のちの藤原良継)に妻となった方である。歌意としては、「大きい海の水底のように深く思いながら、裳裾を引いていつも行き来した菅原の里よ」というものであり、かつての愛を得ていた日々を恨めしく回想した歌であるという。

 さらに奈良の古寺には必ずと言っていいほどある會津八一の歌碑には、「ひとりきて かなしむてらの しらかべに 汽車のひびきの ゆきかえりつつ」とあり、歌意としては、「ひとりやってきて、荒廃をかなしむこの寺の白壁に、汽車に行き帰りする音が響いてくる」という意味である。かつて荒廃していたこの寺の荒れ果てた様子を悲しみ、近くを走っている近鉄電車の音が響いている音がさらにその悲しみを高めたのであろう。

 

 また、喜光寺の本堂の西側には、一乗院宮の墓所があった。

 

 かつて、この寺は、中世、興福寺の末寺となり、興福寺の塔頭である一乗院に属していた関係によるものであろう。

 

 さほど大きくない境内には、その他石仏や蓮池などがある。

 

 蓮の花の季節には境内いっぱいに蓮の花が咲いているのだろう。

 

 喜光寺を後にして、近接する菅原東遺跡をめざす。近鉄橿原線沿いの住宅地の中にあるのだが、見つけるのに少し時間がかかってしまった。住宅の中のポケットパークの中に、埴輪窯が保存されている。

 

 菅原東遺跡は、古墳時代前期から中期の豪族の居館と集落跡と古墳時代後期の埴輪窯跡が見つかっている。そのうち、古墳の埴輪窯跡6基については、移築などをして、菅原なにわ窯公園として保存されている。

 

 一部は、埋め戻され、その位置をアスファルト等でわかるようにしている。

 

 移設された埴輪窯のうち1基は発掘時の状態がわかるように展示されている。

 

 埴輪窯はすべて登り窯で作られており、ここで作られた埴輪は、近くの秋篠川の水運を使って、大和の北部、中部の古墳に供給されたのであろう。ちなみに、この辺りは土師氏の本拠として考えられ、古墳の祭祀に土師氏が大きくかかわっていたことを裏付けるものであろう。

 

 草ぼうぼうの中、埴輪らしき置物がある。草刈りの時期が終われば、忽然と埴輪が現れるのであろう。さあ、ここから阪奈国道の下をくぐって、佐紀古墳群のいくつかの古墳を見て回ることにしよう。

 

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