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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

西の京を歩く③ ~兵庫山古墳・安康天皇陵~

2018-02-12 23:03:41 | 史跡を歩く
 菅原東遺跡から住宅街を抜け、阪奈道路をくぐって、南の方角へ歩いていくと、近鉄の尼ヶ辻駅の周辺に出る。尼ヶ辻駅の北側を南北に走っている道路は、平城京の三条大路である。この道を西に向かって歩くことにした。垂仁天皇の陵に治定されている宝来山古墳を左に見ながらしばらく歩いていくと、右手に古墳らしき塚が見える。

 

 これが、兵庫山古墳と呼ばれる古墳で、垂仁天皇陵のい号陪冢として、宮内庁が管理している。直径40mほどの円墳で、墳丘のかなりぎりぎりまで住宅が建っている状況である。

 

 せっかくなんで、住宅の裏側へ回り込むなどしながら、数枚、写真をゲット。円墳っぽいなあと思う。宝来山古墳とそう離れていないので、陪冢とするのもそうおかしくないような感じである。

 

 兵庫山古墳については、江戸時代には、この後訪れる安康天皇陵として比定されることもあったという。面白いことに、平城京では、この兵庫山古墳と宝来山古墳の間に三条大路が通っていたことになる。本来、三条大路は幅16mに及び大きな道なのだが、この古墳等の間を通すために、道幅を狭くしていた可能性もあるらしい。

 

 奈良時代、平城京を整備する時には、いくつかの古墳を破壊して整備していたことはよく知られているが、意識的にこれらの古墳を残したと考えると何か特別な意味があったのかもしれない。

 この兵庫山古墳から、さらに西へ進んでいくと、安康天皇陵の前に出る。
 
 

 安康天皇陵については、遠目には、古墳のように見えるし、また、地図を見ても、周囲を濠で囲まれており、周濠を持った方墳のように見えるのだが、どうも古墳ではないらしい。

 

 近年では、中世の山城の跡ではないかと言われている。確かに、古墳とするには、少し佐紀古墳群の一群からは離れすぎている気もするし、周囲にこれといった古墳もない状況ではある。

 

 安康天皇については、倭の五王の中の四人目、興王に比定される場合が多い。父は、倭王済とされる允恭天皇である。古事記や日本書紀を読んでもあんまり事績らしいものは出てこない。そういうことから考えると倭の五王の興王という感じとは重ならないのだが・・・。
 安康天皇については、寧ろ、皇太子であった木梨軽皇子を殺害して、皇位につき、仁徳天皇の皇子大草香皇子を殺害して、その妻であった中帯媛命と奪って皇后するも、大草香命と中帯媛命との間に生まれた眉輪王に殺害されるというネガティブなイメージの付きまとう天皇という感じである。

 

 そのためか、古事記、日本書紀も扱いもあまりよくなく、陵墓の所伝も混乱していたりする。なんとなく影の薄い気がする陵ではある。

 

 安康天皇の次の大王が、倭王武とされる雄略天皇である。
 安康天皇陵の後は、もと来た道を引き返して宝来山古墳を訪ねることにしよう。

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