先日、百舌鳥古市古墳群の世界遺産登録を祝って、デラこふんフェスを開催。その中のイベントの一つで、藤の森古墳が公開されるということで葛井寺市生涯学習センターアイセルシュラホールへ向かう。
アイセルシュラホールは、岡古墳から出土した舟形埴輪をモチーフに外観が造られている。ここの二階には、倭の五王と古市古墳群をテーマにした展示があり、西墓山古墳や津堂城山古墳の出土物が展示されている。また、訪問時には、古市古墳群から出土した埴輪が展示されており、特に古市古墳群の埴輪の変遷がⅠ期からⅤ期にわけてわかりやすく展示していた。
藤の森古墳は、もともとは誉田山古墳の近く、藤井寺市野中一丁目の大阪府美陵ポンプ場にあったが、ポンプ場の建設にあたって発掘調査を行い、その後、ポンプ場に横穴式石室のみ移設されていたのを最近、藤井寺市が引き取り、アイセルシュラホールの敷地に改めて移設したものである。移設されたとはいえ、古市古墳群では、小口山古墳と藤の森古墳ぐらいしか実際の石室を見ることができる古墳はないと思う。
藤の森古墳は、直径約26mの円墳で周囲に堀をめぐらせており、墳丘には葺石と埴輪が置かれていたことが確認されている。埋葬施設は、横穴式石室なのだが、通常見慣れている石室とは少し違っている。
石室については、片袖式で短い羨道を有している。また、板状の割石で構築されている。なお壁面には、赤色の顔料が塗られていたらしい。
また、石室の中から鉄くぎが見つかっていることから、組合せ型木棺が安置させていたと考えられている。その他にガラス製の勾玉や丸玉、鉄鏃などが見つかっている。
藤の森古墳の石室は、畿内では最古級の横穴式石室だと言われおり、その築造は、5世紀の中ごろだと考えられている。この
で構築されている石室は竪穴式の石室から横穴式石室へ移行する過渡期のものであり、九州からの影響を受けているという指摘もあるようだ。藤の森古墳の出土品もアイセルシュラホールで展示されている。
なお、藤の森古墳は普段は、フェンスに囲われて施錠されており、石室の近くに近寄ることはできなくなっている。
併せて藤の森古墳に周辺にある古墳をいくつか紹介したい。
アイセルシュラホールから西へ5分ほど歩いたところに、岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)がある。
この日は、天気が悪かったので、あんまりいい写真を撮れることができなかったが、それでも、古市古墳群の古墳の中でも一二を争う古墳の眺めの良さは実感できた。
岡ミサンザイ古墳は、中世に城郭として活用されており、墳丘自体は、かなり攪乱を受けているらしい。東南部の造り出しなどは、本来の古墳のものではなく、中世の城郭施設の一部であったとのこと。古墳の築造については、古市古墳群の大王級の古墳では、一番新しいものであると言われ、5世紀の後半と考えられている。被葬者については、仲哀天皇がいたとしても、倭の五王が登場する前の大王であり、古墳の築造年代とは合致しない。一説では、倭の五王の武にあたる雄略天皇が被葬者ではないかと言われている。古墳の雄大な姿は、倭王武として、中国まで名を馳せた大王にふさわしいような気がする。
雨雲で曇って見えないが、天気が良ければ、向こうに二上山が見えるそうだ。
岡ミサンザイ古墳の近くには、後円部側に鉢塚古墳がある。
この日は、天気が悪いので、幼稚園の園庭越しに眺めるにとどめた。この幼稚園も廃園が決まっているらしく、将来的にはフェンスなども取り外して、古墳の姿がよく見えるようになるのかも。
岡ミサンザイ古墳と築造年代は近く5世紀の後半と考えられており、二つの古墳の関係が注目される。陪冢説とこの時期の古墳は陪冢を伴わないとして否定説とあるようだ。
そして岡ミサンザイ古墳の南側には駐車場の中に割塚古墳という小さい方墳がある。
岡ミサンザイ古墳に先立つこと100年ほど前に築造されたものらしい。この割塚古墳とこの近くにあった、現在は破壊された岡古墳が非常に近い関係があったらしい。なお、割塚古墳は、国の史跡となっているが、岡ミサンザイ古墳、鉢塚古墳のように世界遺産を構成する古墳となっていない。
アイセルシュラホールでは、岡古墳から出土した舟形埴輪を見ることができる。
最後に、アイセルシュラホールでももずふるカードを配布しており、ここで、鉢塚古墳と岡ミサンザイ古墳、アイセルシュラホールの3枚をゲット。コンプリートカードを手に入れるまではまだまだかかりそうだ。
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