平成31年2月3日(土)
橿原考古学研究所による小山田遺跡の第10次調査の現地説明会に参加。今回もかなりの人が集まってきていた。
今回も、奈良県立明日香養護学校の敷地内で、校舎の裏側の非常に狭い敷地の中で行われた。
今回の発掘調査の成果は、墳丘の西辺の裾がある程度確定できたこと。それに伴い、東西の幅が、当初想定された70mから約80mと広がる結果となった。
後世の堆積土からかなり深いところに、墳丘の盛り土の裾が検出されている。これまでの調査で確認されている古墳の中心線から、この盛り土裾まで約39.7mあり、これを反対側に折り返すことで、古墳の東西の幅が判明する。この結果、古墳の南辺の長さが、約80mあるということがわかったというもの。
北辺については、従来通り70mとのことなので、古墳の形が、正方形ではなく、やや台形のような平面になると考えられる。
一辺は80mもある方墳は、これまで見つかっておらず、確認された方墳としては、一番大きいものということになるらしい。
また、西辺では、以前の発掘調査で見つかったような貼り石を施された堀割は見つからなかったが、同様の石材が見つかっており、西辺も同様に貼り石などは施されていたと考えられている。
また、古墳の盛り土の裾のあたりから。小さな甕棺墓が一つ見つかっている。
この甕棺墓は、この古墳の濠が埋められ始めたときに埋葬されたのではないかと考えられており、7世紀後半から8世紀初頭頃と考えられている。ということは、結構早い段階で、この古墳に対する祭祀が行われなくなっていたと考えるのが妥当なのかもしれない。
そういえば、この古墳からほど遠くないところに菖蒲池古墳があるが、この古墳も築造後、そう遠からない時に、古墳の破壊が始まっている。
そうなると、この古墳と菖蒲池古墳との関係が非常に気になる所ではある。蘇我蝦夷と入鹿の親子は、今来のな双墓を生前に造り始めていたという話が日本書紀にはある。比較的早い段階で、祭祀を行うものがいなくなったということを併せて考えると被葬者に蘇我蝦夷などを想定するのも悪くはない気がする。
小山田遺跡の発掘調査は、これからも引き続き発掘調査は行われる予定である。
最後に、小山田遺跡の発掘調査の現地説明会に行くと必ず隣接している菖蒲池古墳も見学ができる。
横穴式石室内に2つの家形石棺が並んでいる姿は、いつ見ても壮観である。
古墳の見学の後は、飛鳥地域をぶらぶらと見て回ることにしよう。
【過去の小山田遺跡の発掘調査説明会】
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