令和元年12月7日(土)
昨年度に引き続き恭仁宮跡の調査現地説明会に参加。これで2度目となる。昭和48年度から始まった恭仁宮跡の発掘調査も今回で100回目の節目となる。
大極殿院跡の発掘調査から始まり、現在は朝堂院区画を中心に調査を進めており、昨年度に引き続き朝堂院区画の北側、大極殿院と接する区画の発掘を行っている。
今回、調査区としては、4区画設けられており、第1・第4調査区が、朝堂院の北辺の遺構の、第2・第3調査区が、仮設の大極殿「四阿殿」の検出をめざして実施されたものである。
【第2調査区】
【第3調査区】
ともに「四阿殿」の検出をめざして、調査区を設定したが、建物跡等は検出できず、朝堂院の中央部においては、仮設の大極殿である「四阿殿」が建てられることはなかったということで、続日本紀にも記載のある四阿殿については、新たな建築場所を想定するほかなくなったことになる。
【第4調査区】
第4調査区については、昨年度の調査で検出された朝堂院の北辺の掘立柱塀に繋がる遺構が見つかっている。
手前の白く石灰で印がつけられているのは、昨年度の調査で判明した柱穴を示す。
柱穴列に並行して、2条の溝が検出されている。この溝については、雨落ち溝か基壇の据え付け痕と考えられるとのこと。この遺構については、朝堂院のさらに南にあった朝集殿の遺構とも酷似しており、区画施設が同様の構造であったと考えられる。
朝集殿は、朝堂院に出仕する役人たちが待機していた場所である。(ちなみに平城宮の朝集殿が、唐招提寺の講堂として現存している。)
【第1調査区】
第1調査区では、朝堂院の北西隅を想定して設定された調査区である。第4調査区から続く柱穴列が柱穴101で南に折れ曲がることが判明。昨年度の調査時には、このまま西に延びて、大極殿院の南側を区画する塀となるのではないかと想定されていたのだが、どうやら違うようだ。
この掘立柱穴がかなり深くにあったことから、恭仁宮が、西側にかなり傾斜していることもわかった。
また、柱穴101の横に溝105があり、これが朝堂院区画の西辺を区画する雨落ち溝であると考えられている。この溝には、まだ取り上げられていない、造営時のものと思われる瓦と木片が遺構に見える。
今後、この西側はどうなっていっているのか、大極殿院とどうつながっていくのかを、次年度以降の発掘調査で確かめていくとのこと。
恭仁宮については、わずか数年の都であるため、かなりやっつけ仕事で造営されたと考えられるため、本来想定されるべきところにあったり、なかったりという状況であるそうだ。
これからも、いろいろな発見があるのだろうと思う。
【出土品】
説明会の終了後は、恭仁宮大極殿跡などを見学しつつ、帰路についた。
【大極殿跡】
【山城国国分寺塔跡】
帰り道に葉牡丹がきれいに家の前に植えられていた。もうすぐお正月である。
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