令和元年6月30日(日)
奈良県香芝市にある平野塚穴山古墳の発掘調査があり、前日には、二上山博物館で大規模な説明会があり、その翌日現地公開が行われた。
当日は、雨の降る中、近くの神社で受付をして、隣接する正法寺というお寺で並んでました。こんな雨の降る日あんまり人は来ないだろうと思っていたのですが、豈はからんや、かなりの人が順番を待っておりました。
平野塚穴山古墳は、7世紀後半の終末期古墳で、一見円墳の様に見えるが、一辺約18mの方墳であるとのこと。今回の発掘調査は、同古墳の史跡整備事業に伴い、平成28年度から令和元年までの4年間にわたって行われたものである。
10人ほどのグループになって、順次、狭い道を通って調査区域の中に入っていく。
墳丘の斜面を覆っていたと考えられる貼石が検出されている。おそらく墳丘全体を二上山産の凝灰岩の貼石が覆っていたと推定される。説明では、こういった貼石を巡らせている古墳は、牽牛子塚古墳や野口王墓古墳等王陵級の古墳に見られるとのこと。
続いて石室の見学へ移動。平野塚穴山古墳は、これも二上産産の凝灰岩を使用した横口式石槨を埋葬施設として持っており、石室の基準尺として、唐尺を用いて造られていると考えられることから、7世紀後半の築造と考えられる根拠ともなっている。
また、この石槨からは、夾紵棺や漆塗籠棺といった当時では、最上級の人物にしか用いられないような棺の破片がいくつか見つかっている。
石槨の入り口の天井石を支える石の下端に梃子穴が残っている。特に左側は加工したとおぼしき穴が明瞭に残っている。説明によると、梃子穴は、石槨を構築する際に設置位置を調整するための工具などを挿入できるように造られたものなのだそうで、同様の梃子穴は、高松塚古墳やキトラ古墳などでも見られるとのこと。
平野塚穴山古墳の埋葬施設については、以前から高松塚古墳との類似は指摘されている所でもある。あんまり長い時間見学をしていると他の方の迷惑にもなるので、写真を10枚ほど取って、次の場所へ。
墳丘の横を通り過ぎて、古墳の下段へ。
墳丘は、上段、下段ともに粘土質土と砂質土を交互に敷き詰める版築という工法を用いて造られている。ただ、下段の方が造りは粗いとのこと。
古墳の上下段をあわせると5.4m前後となる。これまで見学した時に見ていたのは、古墳の上段だけを見ていたということなのだろう。これまでみてきた飛鳥地方にある終末期古墳と外形上も似ている感じがする。
足元を見ると閉塞石として使われていたと思われる石が転がっていた。加工したような四角い形をしている。
これらの発掘の成果からは、平野塚穴山古墳については、7世紀後半に築造されたかなり当時としては身分の高い人物が埋葬された古墳であるという見方が強くなった。
ただ、前日の説明会では、敏達天皇の皇子押坂彦人大兄皇子の子で、皇極、斉明天皇、孝徳天皇の父である茅渟王に半ば強引に結び付けていたが、今回の古墳の発掘調査では、むしろ茅渟王の子どもあるいは孫の代により近い築造だと考えられそうで、茅渟王だとすると、かなり長命であったか、改葬されるかしないと時代が合わないような気がする。むしろ、高市皇子説の方が、古墳の築造年代とは合致するところがありそうな気がする。
それから、押坂彦人大兄皇子の墓と考えられる牧野古墳が、円墳であることを考えると、方墳である平野塚穴山古墳が、その血筋を受け継いでいる人物の墓と考えるのも少し難しいかなとも思う。
謎は深まるばかりでございます。
帰り道に、平野1号墳、2号墳があり、少し見学をする。
かつてこの辺りには、6基ほど古墳があったらしい。
最後、JR志都美駅に向かう途中に、天下一品を発見。昼食を取ることにした。なんとここはタッチパネル方式であった。
文明はこんなところまで及んでいるのである。
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