近鉄橿原神宮前駅東口を出て、東に500メートルほど進むと大きな池に出る。これが、剣池と呼ばれる池である。この池については、応神天皇の頃に人工的に作られた池であると言われている。池のほとりにある島は、孝元天皇剣池嶋上陵とされている。しかしながら、孝元天皇については、欠史八代と言われる天皇であり、実在が疑われている天皇の一人である。欠史八代とは、「古事記」「日本書紀」において、帝紀のみが記され、旧辞が記されていない八代の天皇をさす。
写真を見ても何となく古墳のように見えるが、この小山全体が古墳ではないようだ。自然の丘陵に少なくとも3基の古墳が築かれており、孝元天皇陵を構成しているのだと言う。また、古地図から横穴の存在も指摘されている。
陵墓自体は、剣池が途切れている南側から登っていくことになる。
参道を登っていくと遥拝所に出る。
ということは、宮内庁は、この丘陵全体を古墳とはみなしていないということなのだろう。ぐるりと回ることができそうな小道があったのだが、足場が悪そうで、足でも滑らせて池に転げ落ちたら、どえらいことになるのでやめた。(僕はほとんどかなづちに近い。)
そして、池の北側に、万葉歌碑が建っている。
「軽の池の浦廻行き廻る鴨すらに 玉藻の上にひとり寝なくに」と記されており、天武天皇の皇女と伝えられる紀皇女の歌である。
目の前を鴨の群れが水面の上をすっと通り過ぎていった。そういった光景に何かしらの風情を感じた。遠く池の中に見えるコンクリートの杭は、宮内庁と地元との境界を示すものだそうだ。
ちなみに、犬養孝の「万葉の旅」では次の歌を引用している。
み佩かしの 剣の池の 蓮葉(はちすは)に 溜まれる水の、行くへなみ 我がする時に 逢ひたる君を な寝(い)ねそと 母聞こせども 我が心 清隅の池の 池の底 我は忘れじ 直(ただ)に逢ふまでに
男の人を想う女心を歌った歌なのだそうだ。ただ詠み人は不詳である。
この剣池の周辺は石川という地名が残っており、この辺りには蘇我氏が石川精舎を建てたという伝承もある。面白いことに蘇我氏を辿っていくと孝元天皇につながっていくのである。(蘇我氏の祖とされる武内宿禰は、孝元天皇の子孫である。)
また、日本書紀によれば、舒明朝と皇極期に剣池に、一茎二花の蓮が咲いたという記述がある。特に皇極朝の時は、蘇我蝦夷が蘇我氏の繁栄のしるしと喜んだという。だた、その後一年も建たずに蘇我本家が滅亡してしまう。何とも皮肉な話である。
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