休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

鳥屋ミサンザイ古墳 ~宣化天皇陵~

2015-01-24 18:01:08 | 史跡を歩く
 近鉄橿原神宮前駅から、去年開館をした歴史に憩う橿原市博物館へ行こうと思い、何となく駅からそう遠くないところにあるじゃないのかなと想像のもと、県道133号線を西へてくてくと一人で歩き始めた。ところがあにはからんや。いけどもいけども博物館らしきものが見えてこない。たぶん、もともとは千塚資料館をリニューアルして建てられたものだから、周りには古墳らしきものがあるはずだ、そんなものは一向に見えてこない。途中、史跡益田池堤跡という看板があった。

 

 看板の横の児童公園を見ると、隅の方に確かに大きな堤らしきものが見える。

 

 これが、益田池堤の一部で、益田池は、「大和州益田池碑銘幷序」という空海の文章が残っており、それによると、藤原三守と紀末成が旱魃対策と開墾促進のため溜池の築造を計画し、嵯峨天皇の許可を得て空海の弟子・真円とともに工事を行ったとあるそうだ。
 残念ながら、池自体はすでに埋め立てられていて、橿原ニュータウンになっており、わずかに、一部が写真のように児童公園の片隅に残っているだけである。ちなみに、県の史跡に指定されている。

 その益田池堤跡を横目に、さらに西へ進んでいくと、いつの間にか新興住宅地から田園風景になり、突然、左手に、参道が見えてきた。

 


 先の「大和州益田池碑銘幷序」に「右鳥陵」という記載があり、おそらく本古墳のことを指していると考えられている。つまり、平安時代には、鳥屋ミザンザイ古墳を天皇陵として認識されていたということであろう。

 

 鳥屋ミザンザイ古墳については、2段築造の前方後円墳であり、墳長138m、前方部幅78m、後円部径84m、前方部高、後円部高ともに19mとなっている。周囲を周濠が巡っており、水量も豊富で、また、田園風景の中にあるため、周囲の環境も穏やかで、見ていて気持ちのいい古墳である。

 

 周濠の最大幅は25mとのことであるが、後円部に行くとかなり狭くなっている。

 

 東側は、がらりと様相がかわって。周濠を拡張して灌漑用の池になっている。幕末の修陵事業の中でに拡張されたものらしい。池から見る墳丘は、池に浮かぶ島のようである。

 

 宮内庁が、この古墳の被葬者としている宣化天皇は、継体天皇、安閑天皇に続く天皇である。この時期については、林屋辰三郎氏の著名な論文「継体・欽明朝の史的分析」に代表される、古事記、日本書紀等の年代の記事の混乱などから、継体天皇―安閑天皇ー宣化天皇と続く王統とは別に蘇我氏が欽明天皇を擁立し、2つの王朝が存在していた(辛亥の変ともいわれる。)とする有力な学説があり、宣化天皇は、まさにその渦中の天皇である。

 鳥屋ミサンザイ古墳については、データ等から考えると、継体天皇の真陵が今城塚古墳であると考えると、少し古墳の形が古いような気がする。一般には、5世紀の後半から6世紀前半に造られたと考えられているようだ。
 そういえば、安閑天皇以後の宣化、欽明、敏達天皇と続く天皇は、皇后等と一緒に埋葬されていることになっている。もしかしたら、古墳に横穴式石室が導入された時期と重なっているような気がする。それは、追葬が容易になったからかもしれない。残念ながら、この古墳に関しては、宮内庁の管轄のため、埋葬施設が不明なため何とも言えない。

 この後、さらに西へ向かい(500mほどの距離でしたが)、目的の歴史に憩う橿原市博物館に到着するも汗だくだくの状態。しかも、バスの本数が少なく、博物館を出た時には1時間以上も次のバスが来ないため、再び橿原神宮前駅まで歩いて帰ることになってしまった。
 今回は、新沢千塚古墳群を全く見ることができなかったので、今度はもう少し時間に余裕を持って、バスの時間を調べていこうと思う。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「万葉の旅」をたどる③ 剣池 | トップ | シェイクスピアを楽しむために »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

史跡を歩く」カテゴリの最新記事