休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

「箸墓以降 -邪馬台国連合から初期大和政権へ-」 近つ飛鳥博物館

2014-11-18 18:02:16 | 博物館へ行こう
 久しぶりの近つ飛鳥博物館である。この日は(行ったのは、11月1日でした。)、別の予定が入っていたのですが、雨でおじゃんになり、家にいても退屈なことから、前から気になっていた、この特別展に行ってみることにした。
 そういえば、この博物館は、子どもが小さい時はよく来ていたのだが、子どもが長ずるにしたがってすっかり足が遠のいてしまっていた。本当に何年振りかの来館であった。

 今回の展示については、箸墓以後ということで、箸墓古墳を最古の大型前方後円墳とし、初期ヤマト政権の成立の象徴であり、以後の古墳の方向を定めた画期であるという視点での展示であった。
 
 展示の内容は以下の通りである。
 
 プロローグ 大型前方後円墳の誕生 ~箸墓古墳~
 第1章 ”やまと”の初期倭王墓とその周辺
 第2章 ヤマト王権と淀川水系
 第3章 王を支えた首長と共同体
 エピローグ ヤマト政権の展開

 すっかり、邪馬台国は、奈良県東南部、纏向遺跡のあたりというのが通説になりつつあるのだなあというのが、この展示を見た印象である。僕が、日本史に興味を持ったころ(30数年前ですね。)は、むしろ九州説の方が優勢であったような気がする。纒向遺跡等の発掘は、このような流れを一新したのだろうなあ。

 そして、箸墓古墳を、最古の前方後円墳として、その後、桜井茶臼山古墳、西殿塚古墳と大王級の古墳が築造されていくことになる。初期の古墳には特殊器台あるいは特殊器台型埴輪が出土しており、箸墓古墳、西殿塚古墳も同様である。この特殊器台が円筒埴輪につながっていくものと言われている。そして、この特殊器台は、箸墓古墳よりも古い時代に岡山県、旧吉備国で出土していることから、吉備国の葬制が、ヤマト王権に採用されたと考えられ、初期大和王権(=邪馬台国)は、吉備国との連合政権であったと言われているようだ。

 ヤマト王権の大王が埋葬されていると考えられる古墳群の系譜については、大和古墳群が初めで、佐紀楯列古墳群、古市・百舌鳥古墳群と続いていくようだ。基本、大和川水系と密接な関係があるようだ。一方、淀川水系においても、ヤマト王権と密接なつながりがあるのだという。淀川水系、今の高槻市辺りには、古くから安満宮山古墳をはじめとしたかなり初期からの古墳が存在している。いずれは、その流れは、今城塚古墳へと繋がっていくのであろうなあ。

 この展示を見ていて、一つのことに気付いた、常設展の古墳の名称は、○○天皇陵古墳なのに対し、企画展の方は、地名をつけた古墳名になっている。行燈山古墳とかいったように。この博物館が作られた時代と今では天皇陵として治定されている古墳の名称に対する考え方が、かなり変わってきているときているということなんだろう。

 ヤマト王権を支えた共同体では、私の住んでいるところに近いところの遺跡も取り上げられていた。身近にこんな発見があったのだなあと思うと親しみ深いものがある。
 
 この辺りの時代史というのは、かなり私が習った内容とはかなり変貌してきている。日本の歴史もどんどんはたらしい発見などで書き換えられていることが実感できる。こういう展示をみてみると、弥生時代後半から古墳時代の前期にかけて、いったん邪馬台国論と離れてみるのもいいような気がする。考古学の知見でかなり書けるように思うのは素人の浅はかさか。

 しかし、考えてみれば前方後円形の墓は、誰に見せるために造られたのであろうか?確かに古墳自体主要な道路に沿ってあることから、道行く人々に大王の威厳、権威を示すものであったと思われる。しかし、前方後円形であることを認識させるには、せめて高い山に見下ろして初めてわかる形なのである。神に見せるためのものだったのだろうか?

 また、纒向遺跡のある山の辺の道界隈、三輪山の麓をぶらぶらとカメラを片手に歩いている自分の姿を想像して、遺跡探訪をしたくなってきた。

 

 博物館の外観。階段状になっているので、てっぺんまで登ってみようと思うのだが、いつも断念してしまう。根性なしである。
 

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