百舌鳥古墳群を歩くシリーズも17、特に大山古墳の周辺の古墳ではその6まで来ましたねえ。丸保山古墳の見学から大山古墳の周遊路に戻ってくると、この辺りの3重目の周濠は、これまで見てきた後円部の周濠と同様に比較的狭くなっている。
しばらく歩いて、おそらく古墳の真ん中あたり、墳丘ではくびれ部があり辺りになると、周濠の幅が大きくなる。おそらく後世になってから灌漑か何かの目的で拡張されたのであろう。また、この辺りから一瞬だけ、大山古墳の周遊路は古墳のそばから離れることになる。
その大きくなった濠の中に、ポツンと小さな塚が浮かんでいるのが見える。これが樋の谷古墳と呼ばれているもので、宮内庁により域内陪冢(丙号)として管理されている。しかしながら、古墳の堤に接して造られている陪冢はいくつかあるが、樋の谷古墳のように周濠の中に浮かんでいる陪冢というのは例をみない。地図を見ても円墳なんだかよくわからない。ただ、南北の外堤の延長線上にあるような感じでもある。
もしかしたら、古墳ではなく外堤の一部が残っただけなのかもしれない。そうなると奈良の垂仁天皇陵に治定されている宝来山古墳にある田道間守命墓とされているものと同様のものと考えられそうだ。
ちなみに最近、樋の谷古墳も世界遺産を構成する古墳からは外されてしまった。どうやら古墳でないかもしれないからということらしい。いったいいつごろから古墳として認識されていたのだろう?特に三重目の濠については、後世に造られたという考えもあるようだし、興味のある所ではある。
そして、いったん古墳を離れた周遊路は、この拡張された周濠を迂回して古墳のそばに戻ってくることになる。この辺りは広場になっている。
古墳のそばには、仁徳天皇の磐之媛皇后にちなんで万葉歌碑が建てられている。
そして、5つの歌碑が建てられており、それぞれに磐之媛皇后が呼んだとされる歌が刻まれている。
それぞれ刻まれている歌を記してみましょう。
①君が行き 日(け)長くなりぬ 山尋ね 迎え行かむ 待ちにか待たむ
②かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 岩根しききて 死なましものを
③秋の田の 穂の上(へ)に霧(き)らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋やまむ
④居明かして 君をば待たむ ぬばたまの 我が黒髪に 霧は降るとも
これが両サイドの歌碑に刻まれているもので、真ん中の大きな万葉歌碑、これは万葉学者犬養孝氏の揮毫によるもので、万葉仮名で以下の歌が刻まれている。
⑤ありつつも 君をば待たむ うち靡く 吾が黒髪に 霜の置くまでに
それぞれの歌が、万葉集でも相聞の部に置かれているように男女の恋愛を題材にして詠われたのもである。実際に仁徳天皇の皇后として伝えられる磐之媛命が詠んだものではなくおそらく仁徳天皇と磐之媛皇后の伝承にちなんで仮託されたものであると考えられている。ちなみに、このブログでも、万葉の旅に採録されている②かくばかり・・・の歌にちなんで一つ記事を書いております。(万葉の旅②「磐之媛陵」)
この公園では、猫が住み着いているようで、カメラを向けても逃げる様子がないのでパチリと写真を撮らせてもらった。このあたりは、昔、大阪女子大学があった場所らしく、非常に広々とした空間が広がっている。
大阪女子大学も大阪府立大学と統合され、現在は府市統合の象徴として大阪市立大学とさらに統合されようとしている。学問の自由、大学の自治は、どこへやらという気がする。皮肉なもんだ。
公園から少し歩いて、御陵通に出る手前のところに銅亀山古墳と呼ばれる古墳がある。この古墳も仁徳天皇陵の陪冢(に号陪冢)として宮内庁が管理している。
銅亀山古墳は、一辺26m、高さ5.4mの二段築造の方墳である。この古墳については、樹木もきれいに刈り取られているので比較的見やすい古墳である。
平成23年に発掘調査がなされているが、残念ながら大山古墳などに結び付くようなもののは検出されなかったようである。ただ、航空写真などから、古墳自体がもう少し大きく、造り出しなどもあったのではと考えられているようである。
ただし、戦時中にこの古墳の上に高射砲砲台が置かれていたという噺もあり、その話が事実なら墳頂はかなり撹乱されていて埋葬施設等は残っていないかもしれない。
銅亀山古墳まで来ると、大山古墳一周の旅も最終コーナーを残すのみとなる。あと少しだ。
しばらく歩いて、おそらく古墳の真ん中あたり、墳丘ではくびれ部があり辺りになると、周濠の幅が大きくなる。おそらく後世になってから灌漑か何かの目的で拡張されたのであろう。また、この辺りから一瞬だけ、大山古墳の周遊路は古墳のそばから離れることになる。
その大きくなった濠の中に、ポツンと小さな塚が浮かんでいるのが見える。これが樋の谷古墳と呼ばれているもので、宮内庁により域内陪冢(丙号)として管理されている。しかしながら、古墳の堤に接して造られている陪冢はいくつかあるが、樋の谷古墳のように周濠の中に浮かんでいる陪冢というのは例をみない。地図を見ても円墳なんだかよくわからない。ただ、南北の外堤の延長線上にあるような感じでもある。
もしかしたら、古墳ではなく外堤の一部が残っただけなのかもしれない。そうなると奈良の垂仁天皇陵に治定されている宝来山古墳にある田道間守命墓とされているものと同様のものと考えられそうだ。
ちなみに最近、樋の谷古墳も世界遺産を構成する古墳からは外されてしまった。どうやら古墳でないかもしれないからということらしい。いったいいつごろから古墳として認識されていたのだろう?特に三重目の濠については、後世に造られたという考えもあるようだし、興味のある所ではある。
そして、いったん古墳を離れた周遊路は、この拡張された周濠を迂回して古墳のそばに戻ってくることになる。この辺りは広場になっている。
古墳のそばには、仁徳天皇の磐之媛皇后にちなんで万葉歌碑が建てられている。
そして、5つの歌碑が建てられており、それぞれに磐之媛皇后が呼んだとされる歌が刻まれている。
それぞれ刻まれている歌を記してみましょう。
①君が行き 日(け)長くなりぬ 山尋ね 迎え行かむ 待ちにか待たむ
②かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 岩根しききて 死なましものを
③秋の田の 穂の上(へ)に霧(き)らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋やまむ
④居明かして 君をば待たむ ぬばたまの 我が黒髪に 霧は降るとも
これが両サイドの歌碑に刻まれているもので、真ん中の大きな万葉歌碑、これは万葉学者犬養孝氏の揮毫によるもので、万葉仮名で以下の歌が刻まれている。
⑤ありつつも 君をば待たむ うち靡く 吾が黒髪に 霜の置くまでに
それぞれの歌が、万葉集でも相聞の部に置かれているように男女の恋愛を題材にして詠われたのもである。実際に仁徳天皇の皇后として伝えられる磐之媛命が詠んだものではなくおそらく仁徳天皇と磐之媛皇后の伝承にちなんで仮託されたものであると考えられている。ちなみに、このブログでも、万葉の旅に採録されている②かくばかり・・・の歌にちなんで一つ記事を書いております。(万葉の旅②「磐之媛陵」)
この公園では、猫が住み着いているようで、カメラを向けても逃げる様子がないのでパチリと写真を撮らせてもらった。このあたりは、昔、大阪女子大学があった場所らしく、非常に広々とした空間が広がっている。
大阪女子大学も大阪府立大学と統合され、現在は府市統合の象徴として大阪市立大学とさらに統合されようとしている。学問の自由、大学の自治は、どこへやらという気がする。皮肉なもんだ。
公園から少し歩いて、御陵通に出る手前のところに銅亀山古墳と呼ばれる古墳がある。この古墳も仁徳天皇陵の陪冢(に号陪冢)として宮内庁が管理している。
銅亀山古墳は、一辺26m、高さ5.4mの二段築造の方墳である。この古墳については、樹木もきれいに刈り取られているので比較的見やすい古墳である。
平成23年に発掘調査がなされているが、残念ながら大山古墳などに結び付くようなもののは検出されなかったようである。ただ、航空写真などから、古墳自体がもう少し大きく、造り出しなどもあったのではと考えられているようである。
ただし、戦時中にこの古墳の上に高射砲砲台が置かれていたという噺もあり、その話が事実なら墳頂はかなり撹乱されていて埋葬施設等は残っていないかもしれない。
銅亀山古墳まで来ると、大山古墳一周の旅も最終コーナーを残すのみとなる。あと少しだ。
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