古室山古墳のすぐ道を挟んで向かい側に、仲津山古墳がある。古室山古墳からは、住宅が建っていて、拝所のあるところぐらいしか直接古墳を見ることができないような状態になっている。
仲津山古墳については、応神天皇の皇后、仲姫命仲津山陵として治定されているため、墳丘等立ち入ることはできないようになっている。ただ、拝所からの写真からでも、古墳のスケールの大きさは窺い知れるところだろうと思う。応神天皇の皇后である仲姫命については、応神天皇の次の仁徳天皇の生母というぐらいしか伝えられておらず、応神天皇の前後の天皇の皇后である神功皇后(仲哀天皇)や磐姫命(仁徳天皇)ほどインパクトがない。ただ、昔、古代史家の井上光貞氏が、著書の中で、応神天皇の前の、成務天皇、仲哀天皇が架空の天皇だとし、本来は、景行天皇 ― 五百城入彦皇子 ― 品陀真若王 - 仲姫命という皇統があり、応神天皇が入り婿として皇位を継いだ(のちの継体天皇と同様の形である。) という学説を述べておられるのを読んだことがあり、その影響で名前だけは知っているといったところである。
古墳自体は、墳丘290mもある巨大古墳であり、大きさで言えば、日本で9番目である。なお、後円部径170m、前方部幅193mとなっている。古墳の東側の方は、家がずらっと立ち並んでおり、全く古墳を見ることができない。周辺の道路を歩いてみると、古墳に沿って建っている家とばの家と道路との間にかなり段差があるので、もしかしたら、かなり元の外堤が広く、その上に家が建っているのかもしれない。
反対側は、古墳に沿って道路がついており、直接、墳丘を観察することができる。
古墳の周濠には、水が溜まっておらず空堀同然の状態になっている。よく観察してみると造り出し部もわかる。水がない分、古墳の形ははっきりとわかるけどね。たぶん、この道自体は、仲津山古墳の外堤の上を走っているのだろうと思う。
なお、仲津山古墳の築造時期であるが、津堂城山古墳よりも後、誉田山古墳の前に築造されたと考えられており、古室山古墳から少し遅れて同時期の4世紀後半の築造されたではないかと言われている。
仲津山古墳の東側に、三ツ塚古墳と呼ばれる3つの小古墳がある。南から助太山古墳、中山塚古墳、八嶋塚古墳と名づけられている。助太山古墳は、史跡として指定を受けており、あとの2つは、仲姫命陵の陪冢として宮内庁が管理している。
助太山古墳については、あとの二つの古墳より少し小さくて、一辺36mの方墳である。築造年代については、埴輪などから5世紀前半と考える説と、墳丘に露出している巨石から7世紀前半の築造と見る説とがある。実際、この時には草ぼうぼうで見ることが出来なかったのだか、数年前に来た時には、写真のように観察をすることができた。
登ってみると確かに横穴式古墳の天井石にも見える。
中山塚古墳と八嶋塚古墳については、一辺50mの方墳であり、かつては周囲を周濠が巡っていたというか、周濠が共有されており、一つの周濠の中に3基の古墳があったといった方がわかりやすいかもしれない。
【中山塚古墳】
【八嶋塚古墳】
中山塚古墳と八嶋塚古墳との間にあった周濠跡から、古代の巨石運搬具である「修羅」が見つかっている。この時出土した修羅は、近つ飛鳥博物館と藤井寺市立図書館で保管展示されている。
また、この修羅を復元したものを近くの道明寺天満宮で見ることができる。
仲津山古墳の北側、外堤と接するように鍋塚古墳がある。
現状では、一辺が約50mほどの方墳である。もともとはもう少し大きく、1辺60mほどになるとも言われている。この古墳も、墳丘に立ち入ることができる。この古墳の上に立つと、仲津山古墳や鍋塚古墳があるところが台地の一番端に位置していることがよくわかる。眼下には、近鉄の南大阪線が走っており、土師ノ里駅は、台地の横の崖下に接するように位置している。鍋塚古墳については、出土した埴輪などから4世紀後半の築造と考えられ、まぎれもなく仲津山古墳の陪冢であると考えられている。また、付近には、同じく仲津山古墳の陪冢と考えられる高塚山古墳があったが、すでに破壊されて消滅している。
この古墳を見学しているとき、首筋の何かもぞもぞと生き物が動いている感覚があったので、げっ、毛虫かなんかついたかと思い、ぞっとしたのだが、触ってみるとなんてことはない、丸々と太ったカマキリだった。家の周辺に出没するカマキリより幾分か大きいので、まだ、自然が残っていて、食料が豊かなのかもしれない。
近鉄の南大阪線と府道堺大和高田線を越えると、市野山古墳(伝允恭天皇陵)までは、すぐそこである。このシリーズも次でいよいよラストだ。
仲津山古墳については、応神天皇の皇后、仲姫命仲津山陵として治定されているため、墳丘等立ち入ることはできないようになっている。ただ、拝所からの写真からでも、古墳のスケールの大きさは窺い知れるところだろうと思う。応神天皇の皇后である仲姫命については、応神天皇の次の仁徳天皇の生母というぐらいしか伝えられておらず、応神天皇の前後の天皇の皇后である神功皇后(仲哀天皇)や磐姫命(仁徳天皇)ほどインパクトがない。ただ、昔、古代史家の井上光貞氏が、著書の中で、応神天皇の前の、成務天皇、仲哀天皇が架空の天皇だとし、本来は、景行天皇 ― 五百城入彦皇子 ― 品陀真若王 - 仲姫命という皇統があり、応神天皇が入り婿として皇位を継いだ(のちの継体天皇と同様の形である。) という学説を述べておられるのを読んだことがあり、その影響で名前だけは知っているといったところである。
古墳自体は、墳丘290mもある巨大古墳であり、大きさで言えば、日本で9番目である。なお、後円部径170m、前方部幅193mとなっている。古墳の東側の方は、家がずらっと立ち並んでおり、全く古墳を見ることができない。周辺の道路を歩いてみると、古墳に沿って建っている家とばの家と道路との間にかなり段差があるので、もしかしたら、かなり元の外堤が広く、その上に家が建っているのかもしれない。
反対側は、古墳に沿って道路がついており、直接、墳丘を観察することができる。
古墳の周濠には、水が溜まっておらず空堀同然の状態になっている。よく観察してみると造り出し部もわかる。水がない分、古墳の形ははっきりとわかるけどね。たぶん、この道自体は、仲津山古墳の外堤の上を走っているのだろうと思う。
なお、仲津山古墳の築造時期であるが、津堂城山古墳よりも後、誉田山古墳の前に築造されたと考えられており、古室山古墳から少し遅れて同時期の4世紀後半の築造されたではないかと言われている。
仲津山古墳の東側に、三ツ塚古墳と呼ばれる3つの小古墳がある。南から助太山古墳、中山塚古墳、八嶋塚古墳と名づけられている。助太山古墳は、史跡として指定を受けており、あとの2つは、仲姫命陵の陪冢として宮内庁が管理している。
助太山古墳については、あとの二つの古墳より少し小さくて、一辺36mの方墳である。築造年代については、埴輪などから5世紀前半と考える説と、墳丘に露出している巨石から7世紀前半の築造と見る説とがある。実際、この時には草ぼうぼうで見ることが出来なかったのだか、数年前に来た時には、写真のように観察をすることができた。
登ってみると確かに横穴式古墳の天井石にも見える。
中山塚古墳と八嶋塚古墳については、一辺50mの方墳であり、かつては周囲を周濠が巡っていたというか、周濠が共有されており、一つの周濠の中に3基の古墳があったといった方がわかりやすいかもしれない。
【中山塚古墳】
【八嶋塚古墳】
中山塚古墳と八嶋塚古墳との間にあった周濠跡から、古代の巨石運搬具である「修羅」が見つかっている。この時出土した修羅は、近つ飛鳥博物館と藤井寺市立図書館で保管展示されている。
また、この修羅を復元したものを近くの道明寺天満宮で見ることができる。
仲津山古墳の北側、外堤と接するように鍋塚古墳がある。
現状では、一辺が約50mほどの方墳である。もともとはもう少し大きく、1辺60mほどになるとも言われている。この古墳も、墳丘に立ち入ることができる。この古墳の上に立つと、仲津山古墳や鍋塚古墳があるところが台地の一番端に位置していることがよくわかる。眼下には、近鉄の南大阪線が走っており、土師ノ里駅は、台地の横の崖下に接するように位置している。鍋塚古墳については、出土した埴輪などから4世紀後半の築造と考えられ、まぎれもなく仲津山古墳の陪冢であると考えられている。また、付近には、同じく仲津山古墳の陪冢と考えられる高塚山古墳があったが、すでに破壊されて消滅している。
この古墳を見学しているとき、首筋の何かもぞもぞと生き物が動いている感覚があったので、げっ、毛虫かなんかついたかと思い、ぞっとしたのだが、触ってみるとなんてことはない、丸々と太ったカマキリだった。家の周辺に出没するカマキリより幾分か大きいので、まだ、自然が残っていて、食料が豊かなのかもしれない。
近鉄の南大阪線と府道堺大和高田線を越えると、市野山古墳(伝允恭天皇陵)までは、すぐそこである。このシリーズも次でいよいよラストだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます