休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

堺のまちを歩く ① ~旧堺燈台~

2016-07-24 13:16:51 | 史跡を歩く
 大阪府内の東部に住んでいると意外と堺市から南へ行くことが少ない。堺方面に行くのにいったん大阪市内に行かないといけないことが、足を遠のかせる原因なのだろうか。近年、JRおおさか東線が出来て少し行きやすくなったような気もする、今日この頃ではある。
 いつの間にか「海の日」なるものが出来て、今年は3連休。海にちなんだイベントもいくつか開催されている。堺市にある旧堺燈台も海の日にちなんで一般公開されるということで、南海電車で堺駅へ。意外と駅前がひっそりとしており、どうやら堺東駅の方が市の中心であるようだ。
 堺駅から、「堺旧港」までは、歩いて10分ほど、思ったより近い。水門を越えると、プロムナードになっている。向かいには、龍女神像が建っている。地元では、「乙姫さん」と呼ばれている。

 

 旧堺燈台とセットになっていることが多いので、同じころのものかと思っていたら、現在のこの像は平成生まれで、2代目になるらしい。初代は、明治36年内国勧業博覧会の折に制作され、その後、昭和49年まで大浜公園にあった水族館に飾られていたが、水族館の廃館とともに撤去され、平成12年堺市の市政110年を記念して復元されたものである。
 旧港には、レジャー用の船が多く泊まっており、その安全を願っているようにも見える。

 また、プロムナードが途中ステージのようになっているところがあり、そこには呂宋助左衛門の銅像が建っている。

 

 呂宋助左衛門という人物については、近頃の人たちは知らないだろうなあ。30数年前、「黄金の日日」という大河ドラマの主人公となった安土物山時代の貿易商人である。戦国時代から安土桃山、江戸時代の初期までは、堺は海外との貿易の中心地として栄えた。その中心人物が呂宋助左衛門である。

 そして、目的地「旧堺燈台」このプロムナードの先に見える。

 

 燈台に着いた時には、すでに何人かの人が来ており、堺市の文化財課の職員の方の説明が始まっていた。

 「旧堺燈台」は、明治時代に入り、堺港の改修とともに新たな燈台が必要になり、明治10年の建設された。建設にあたり、その費用は堺市の商人などが中心になって集められたらしい。いかのも商人のまち堺らしいエピソードである。
 燈台が立っている台の石積みは備前国(現在の岡山県)出身の石工・継国真吉が、建設工事は堺在住の大工・大眉佐太郎が行い、そして灯部の点燈機械の取り付けは英国人技師ビグルストーンが携わったとされている。また、石材も瀬戸内海の方から運んできている。

 

 土台の海側の方が、船の先のようにとがっているのは、波除のためとのこと。

 

 中は、4階まであるのかな、実際に見学ができたのは1階部分のみ。中は非常に狭く10人も入ればいっぱいいっぱいな感じである。
 
 

 床も床張りなどなく、土台の石が直接足に触れる。

 

 燈台の高さは、約11m、6角錘形である。後ろを高速道路が走っているためか、結構ミニチュアな感覚になってしまう。

 

 ちなみにこの「旧堺燈台」は、昭和になり、堺沿岸の埋め立て工事等が行われ、燈台としての役目を終え、昭和43年に廃止された。現在は、最古の木造燈台の一つとして国の史跡に指定されている。また、平成17年から19年にかけて解体修理が行われている。

 職員の方の説明で大浜公園には台場の跡があるということで、大浜公園に向かうことにした。

 

 燈台の後ろには、堺市が観光振興を図るために書いた壁画が見える。額に雨粒らしきものがかかる雨が降らなければいいなと思いながら、次の目的地へ!
 ※壁画は、「浪漫やさかい」というらしい。大阪弁のさかいと堺をかけたネーミングになっている。

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