ヒシアゲ古墳のすぐ南にコナベ古墳がある。
コナベ古墳には、7基陪冢が現存しているが、そのうち2基は、隣接する航空自衛隊幹部学校の敷地内にあるため、見学することができない。
そのため実際に、その姿を見ることができるのは、コナベ古墳の西側、水上池との間に縦に並ぶ5基の陪冢だけである。は~ほ号陪冢はコナベ古墳側から、へ、と号陪冢は水上池側からの方が見つけやすいように思う。
それでは、それぞれの古墳を探索してみよう。
ちなみに、それぞれの陪冢の形状、数値は、奈良県の遺跡地図による。
【陪冢 は号】
方墳 一辺約25m
【陪冢 に号】
方墳 一辺約20m
【陪冢 ほ号】
方墳 一辺約15m
【陪冢 へ号】
方墳 一辺約15m
【陪冢 と号】
方墳 一辺約35m
何故か、陪冢はすべて方墳である。時間的経過を考えると、方墳から円墳、帆立貝型古墳という流れがあるような気もする。コナベ古墳は、二重周濠を持つと考えられており、古墳と陪冢群とは接近した中に造られたのであろう。
この陪冢群のすぐ西側に水上池が広がる。奈良県の景観遺産に指定され、水鳥が多く集まる野鳥の楽園として、バードウォッチングを楽しむ人も多い。
池を挟んで望む、市庭古墳やヒシアゲ古墳等の姿も美しい。
ちなみにこの水上池は、日本書紀の垂仁天皇の頃に造られた狭城池であると言われており、そうなると日本でも最古級のため池ということになる。
池のほとりに、一基万葉歌碑が建てられている。
歌碑には、「をみなへし 佐紀沢に生ふる 花かつみ かつても知らぬ 恋もするかも」という中臣女郎の歌が書かれている。
歌意は、おみなえしが咲くという、佐紀沢に生い茂る花かつみではないが、かつて味わったことにない切ない恋をしていますということだそうだ。花かつみとはどんな花をさすのかはわからないらしい。
作者の中臣郎女も大伴家持をめぐる女性の一人であることしかわからなかった。ただ、歌碑が、磐之媛命陵と伝わるヒシアゲ古墳のすぐそばにあるのも不思議な気がする。
奈良時代、この辺りは、いくつかの池と古墳の墳丘が織りなす庭園のような光景だったのかもしれないなあと何となく思う。だからこそ、そのままの形で残ったのだろう。そうすると1300年前の都人も同じ景色を見ていたのかもしれない。心は遥かな時空を飛び越えていくのである。
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