休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

飛鳥の古墳⑥ マルコ山古墳

2015-04-29 22:10:56 | 史跡を歩く
 乾城古墳の見学を終えたのち、明日香村と高取町の町村境辺りまで戻り、そこから、現在拡張工事中の道を南に向かう。地図で見る限り丘陵を越えてマルコ山古墳の前を通る道にであるはずと思い歩き始める。途中までしか工事が終わっていない状態で、道が車も通れないような細い道になっていく。これはまずいなあと思いながら歩くと丘を越えたあたりからさらに道は細くなり、村墓地の中を通り、行き止まりとなってしまった。こんな里山で遭難って笑われへんなあと冷や汗をかきながら元の来た道を引き返していく。10分も歩いただろうか、もう一本の道を発見。その道を辿るとほどなく真弓の集落に出た。よかったと思い、その道を東に進むと、マルコ山古墳の前を出た。マルコ山古墳と書いた案内を見つけた時、やっと着いたあてなもんですわ。

 案内に従って、民家の横を抜けていくとマルコ山古墳が見えた。

 

 きれいに修復され過ぎて、古墳の持つ歴史的な重みというか長年風雪に耐えてきた重みが感じられない。土饅頭という感じのものになっている。飛鳥の古墳の中では、高松塚古墳と並んで残念な古墳になっている。

 マルコ山古墳については、かつて日本中の注目を集めたことがある。たぶん、昭和52年の発掘で、マルコ山古墳の横穴式石槨の中をファイバースコープを使って調査する様子をテレビで生中継したと思う。放送前が、第2の高松塚古墳かという触れ込みで、もう今にも壁画古墳が出てきそうな放送だったのだが、結果は、白く薄汚れた石槨の壁だけが写っていただけであった。ただ、その時に乾漆棺の破片が見つかって、高貴な方のお墓であることがわかったとなんとか失望感を最小限に留めようとしていたのを覚えている。
 そういったマイナスなイメージが今の状態に結びついているのであろうかとも思ったりする。

 古墳自体は、その後の調査で、全国でも珍しい六角形墳であることが判明している。ちなみに復元された古墳は二段築造の円墳(?)である。この辺りも残念・・・だよな。

 古墳の前には、石室の内部を説明した案内板が置かれている。

 

 古墳は、版築工法で作られており、墳丘の対角長は24m、高さ4.5mの2段築造であり、内部施設は、凝灰岩を組み合わせた横口式石槨をもち、内壁全体に漆喰が塗られているそうだ。残念ながら、横口式石槨は、埋め戻されており、見ることができない。

 

 古墳の南側に、おそらく石室の位置を示しているのか石が置かれており、石の両側に花が活けられている。

 マルコ山古墳の発掘調査では、30歳台と思われる男性の人骨の一部が見つかっている。被葬者について、当初、草壁皇子ではと言われていたが、草壁皇子は、27歳で亡くなっていることから、この対象からははずれてしまう。現在は、天智天皇の皇子である川島皇子説が有力になっているようだ。ちなみに川島皇子は、持統5年(691年)に34歳で亡くなっており、マルコ山古墳が築造された7世紀末と死亡時期が合致している。また、川島皇子については、越智野に葬られたとの記述が万葉集にある。越智野については、高取町北部から明日香村西部にかけてある低丘陵地周辺であると言われている。(現在、越智野という地名は、高取町の北部、橿原市と御所市と接する地域に残っている。)

 

 川島皇子については、先ほども触れたが天智天皇の第2皇子であり、天武天皇の死後、大津皇子謀反事件では、事件の発覚の端緒となる密告を行っている。また、それ以前の天武天皇の8年には、鵜野讃良皇后が列席する中、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、志貴皇子らとともに吉野の盟約に参加するなど、朝廷の中では微妙ではあるが重要な地位を占めていたと考えられる。

 

 山の中からこの道に出た時は、ほんと助かったと思った。この道を下っていくと左手にマルコ山古墳の姿が見える。さらに下っていくと飛鳥駅に出る。この日は、山歩きに疲れたので束明神古墳に寄らず帰ることにした。

 

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