真弓鑵子塚古墳から県道に出て、西に向かって数百メートル歩くと、高取町に入る。さらにもう少し歩くと次のような案内板を見つけることができた。
写真では、よくわからないが、貝吹山城跡、乾城古墳、鑵子塚古墳と三行にわたって書いてある。その案内板にしたがってしばらく行くと道路沿いに、灰色のビニールシートが被さっている塚が見える。これが乾城古墳である。近づくと「西側が乾城古墳である。」という看板が建っている。看板の脇にある鉄の階段を登っていくと、横穴式石室の入り口にである。
乾城古墳の石室も真弓鑵子塚古墳や沼山古墳と同様に天井が高くドーム状になっている。ここも他の古墳同様に石室の入り口に鉄柵がされており、内部に入ることはできない。
石室の内部を写したものである。石室の雰囲気がわかっていただけるだろうか。石室の大きさは、両袖式の構造で、長さ6m、幅3.7m、高さが、5、3mということで、石舞台古墳の石室よりも天井が高いことになります。柵越しではその高さが実感できないのが残念ではある。
床面には、木棺を載せた棺台が残っているそうなのだが、写真ではあんまりわからないなあ。それらしきものがあるような気もするのだが・・・。ちなみに、乾城古墳は、一辺36mの2段築造の方墳と考えられている。
羨道の両側の石も立派であり、見ごたえはあった。この古墳からは、渡来系と考えられる古墳から多く出土している炊飯器のミニチュアが発掘されており、6世紀末から7世紀前半ごろの渡来系の氏族、東漢氏の首長墓ではないかと考えられている。
古墳を見学中、ミシミシと墳丘が崩れそうな気味の悪い音が聞こえたので早々にして、乾城古墳を後にした。
乾城古墳は、近くにある与楽鑵子塚古墳や寺崎白壁古墳の一緒に、与楽古墳群として2013年に国の史跡に指定されている。訪問時、そういった情報も持っていなかったため、鑵子塚古墳という案内を真弓鑵子塚古墳のことだと勘違いをして行かなかった。同じ鑵子塚古墳でも、与楽鑵子塚古墳が別にあるとは、あとあとこのことが心のこりで、なかなかここまで足を延ばす機会も少ないので残念だった。
いつの日か、きっと行ってみようと思う。いつか出会える日を楽しみにしておきましょう。
写真では、よくわからないが、貝吹山城跡、乾城古墳、鑵子塚古墳と三行にわたって書いてある。その案内板にしたがってしばらく行くと道路沿いに、灰色のビニールシートが被さっている塚が見える。これが乾城古墳である。近づくと「西側が乾城古墳である。」という看板が建っている。看板の脇にある鉄の階段を登っていくと、横穴式石室の入り口にである。
乾城古墳の石室も真弓鑵子塚古墳や沼山古墳と同様に天井が高くドーム状になっている。ここも他の古墳同様に石室の入り口に鉄柵がされており、内部に入ることはできない。
石室の内部を写したものである。石室の雰囲気がわかっていただけるだろうか。石室の大きさは、両袖式の構造で、長さ6m、幅3.7m、高さが、5、3mということで、石舞台古墳の石室よりも天井が高いことになります。柵越しではその高さが実感できないのが残念ではある。
床面には、木棺を載せた棺台が残っているそうなのだが、写真ではあんまりわからないなあ。それらしきものがあるような気もするのだが・・・。ちなみに、乾城古墳は、一辺36mの2段築造の方墳と考えられている。
羨道の両側の石も立派であり、見ごたえはあった。この古墳からは、渡来系と考えられる古墳から多く出土している炊飯器のミニチュアが発掘されており、6世紀末から7世紀前半ごろの渡来系の氏族、東漢氏の首長墓ではないかと考えられている。
古墳を見学中、ミシミシと墳丘が崩れそうな気味の悪い音が聞こえたので早々にして、乾城古墳を後にした。
乾城古墳は、近くにある与楽鑵子塚古墳や寺崎白壁古墳の一緒に、与楽古墳群として2013年に国の史跡に指定されている。訪問時、そういった情報も持っていなかったため、鑵子塚古墳という案内を真弓鑵子塚古墳のことだと勘違いをして行かなかった。同じ鑵子塚古墳でも、与楽鑵子塚古墳が別にあるとは、あとあとこのことが心のこりで、なかなかここまで足を延ばす機会も少ないので残念だった。
いつの日か、きっと行ってみようと思う。いつか出会える日を楽しみにしておきましょう。
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