櫟本墓山古墳から、国道169号線に出ると目の前に和邇下神社の朱色の鳥居が見える。鳥居をくぐって参道を歩いていくと徐々に周囲の景色が変わってくる。市街地から一気に農村に変わっていくのである。
ものの5分も歩くと左手に、歌塚と呼ばれ、柿本人麻呂像となぜか蛙の石像が置かれているところがある。
言い伝えによると、柿本人麻呂の遺髪を埋めた場所とも伝えられる。
人麻呂像の傍に何故蛙がうじゃうじゃいてるかは不明。この歌塚(人麻呂塚)については、以前にもこのブログで取り上げたことがあるのでそちらを参照してください。(「万葉の旅」をたどる⑧ ~人麻呂塚~」)
歌塚から児童公園を越えて少し行ったところから左に曲がって参道を入っていく。徐々に森が深くなっていく、右手に和邇下神社古墳の説明板が立てられていた。
和邇下神社古墳については、墳丘長105mの前方後円墳で、近くにある東大寺山古墳や赤土山古墳などと東大寺古墳群の構成している。埋葬施設については、古墳の後円部に和邇下神社の社殿が建てられており、定かではない。ただ、墳丘の裾からは円筒埴輪が検出されており、古墳時代の前期末から中期初め(4世紀末から5世紀初め)に築造されたと考えられている。
東大寺古墳群では、東大寺古墳→赤土山古墳→和邇下古墳の順に築造されたと考えられている。
そして、和邇下神社の境内の中に、和邇下神社古墳の天井石もしくは石室材と思われる石がぽつんと置かれていた。
観察してみると石材の外縁にそって加工しているように見えるので組み合わせ型の石棺の底石のような気がする。また、石材の下には、古墳から出土したのであろうか、埴輪か何かの破片がかごの中に無造作に入れられていた。
また、この石材の周辺は、柿本人麻呂などを輩出した柿本氏の氏寺である柿本寺があった場所と伝わる。
礎石なのかな、埋められた石がいくつか地面から顔を出している。また奈良時代のものと考えられる瓦なども出土しているとのこと。
柿本氏については、古代この辺りに勢力を持っていた和邇氏の同族と考えられており、ここが本拠であったのかもしれない。
和邇下神社の社殿については、先にも書いたように古墳の後円部の上に建っており、急な階段を登っていかなければならない。
どことなく古墳の雰囲気が残っている。うっそうとした森の中にあるのであんまり墳丘の形状とかは確認できなかった。
和邇下神社については、古くは下治道宮と呼ばれていたが、明治時代になり和邇下神社という名称に変わった。祭神は、現在は素戔嗚命、大己貴命、櫛稲田媛命とされている。
立派な拝殿があり、その奥に国の重要文化財である本殿があるが、見ることはできなかった。ただ、この神社が建てられている場所の雰囲気は、いかにも古代からというか神話の時代から伝わっている由緒ある所という気分は満喫できた。
また、森の中の参道を歩いてみると、円墳のような高まりを見つけた。
遺跡地図を見ると和邇下神社横古墳と径13mほどの古墳が記されているので、それかもしれない。
神社から離れて写真を撮るも、鬱蒼たる森で古墳がどこにあるかはわからなかった(笑)
この後は、さらに東へ向かって赤土山古墳をめざしていくことになる。
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