狐井城山古墳から出土したと伝えられる石棺が、古墳の周辺を流れる初田川の阿弥陀橋というところにあるということで、再び狐井城山古墳の横を横目に南へ向かう。
良福寺の集落の中を歩いていると、恵心僧都(源信)の生誕の地を示す石碑が、まるで飲料水の自動販売機のごとく立っていた。
この石碑から、西へ向かうと阿日寺というこじんまりとしたお寺があった。ちなみに恵心僧都(源信)は、教科書風に言うと平安時代中期の天台宗の僧。比叡山で修行をし、のち「往生要集」を著して、念仏結社の指導など浄土教の発展に大きく寄与した人物である。(地獄という怖い世界を世に示した人でもある。)
お寺の中に入ると、山門のところで、声が流れる。(たぶん、「ようこそお越しくださいました」だったと思う。)
境内には、本堂と恵心僧都とその母を祀る恵心堂などがあった。
小さいながらもきちんと整えられていて、どこかすがすがしい気分になるお寺だった。「ぽっくり寺」という通称もあるようなので、本堂で拝んでおいた。(長患いもいややけどぽっくりと行き過ぎるというのもなあ。)
お寺から出る時も、声が流れたよ。(「お疲れさまでした」だったかな。)
ここから、元の道に戻って、さらに南へ。途中、二上山の姿がきれいに見えるところがあり、1枚とってみた。初夏だというのにコスモスの花が咲いていた。
地蔵堂を越えていくと東西の道路に出る。この道路に従って東へ行くと間もなく阿弥陀橋が見える。
用水路にような細い川に小さい橋が架かっている。阿弥陀橋という名称の由来は、恵心僧都が幼少のときに、信者の結縁を結んで橋を架けたということのようだ。
橋のたもとには、繰抜式の長持形石棺の蓋石が二つ、そのうち一つは仏様に見立てられたのか立てて置かれていた。そして、その横には石室の天井石として使用されていた石が一つ置かれていた。
これらの石は、阿弥陀橋の橋板などに再利用されていたらしい。
立てられている石棺の蓋の前にお賽銭が置かれているのが、非常に日本的な光景のような気がする。確かに長持形石棺の縄掛け突起の部分が顔のようにも見える。これらの二つの石は、一つの石棺の蓋石が二つに断ち割られたものだという。
それから、これらの石は、竜山石であるとのこと。わざわざ遠方からこの石材を持ってこれるとなると埋葬されていた人物は、かなりの権力者であったのだろう。そういえば、この狐井城山古墳の被葬者とも言われる顕宗天皇は、竜山石の産地である播磨で見出された伝承を持つ天皇であった。
ちなみに、この用水路は、狐井城山古墳の東側を流れている用水路であった。もっと早く気づいていたら、こんな遠回りしなくてもよかったのに・・・。
最後に、この用水路では、狐井城山古墳の近くのところでも、石棺が見つかっている。一つは、二上山博物館の前庭に展示されている。(「大和の古墳を語る」など少し古い本では、下田小学校で展示されていると書かれている。)
これは、長持形古墳と舟形古墳の中間的な石棺とも言われている。いずれにしても、狐井城山古墳と関係がありそうな石棺である。
それから、もう一つ、いくつかの本を読んでいると家形石棺の蓋石が見つかっているようなのだが、どこにあるのだろう。二上山博物館の前庭には、その家形石棺の復元されたものはあるが、その元はいずこに?
よくわからない謎を残したまま。このブログは終わっていくのである。
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