狐井城山古墳の北、100mほどのところにに杵築神社といういかにも村の鎮守さんというような小さな神社が建っている。
祭神は、須佐之男命で、楠木正成に仕えた赤土家二代正長が河内国から狐井に住した際、千早赤阪城の鎮守を勧請したのがこの神社の創建との伝承が伝わっている。境内には、周辺の地名である「狐井」の由来となるきつねが掘り当てたきつねの井戸が残っている。
現在は、ポンプ式の井戸になっているが、この姿自体、令和の世の中では珍しいもののような気がする。ちなみに「きつねの井戸」の詳細は、奈良県のHPに載っている。⇒「奈良のむかしばなしきつねの井戸」
このきつねの井戸が、「狐井」の由来となったものであるらしい。杵築神社も狐に音が近いし、そういったこともこの地名の由来と関係するのかな。
そして、杵築神社の本殿の後ろに、こんもりとした丘がある。これが、狐井稲荷古墳と言われる古墳である。ただ、周辺は住宅等で囲まれているので、古墳の姿自体、捉えるのが難しい。
西側で少し古墳の姿を捉えることができた。※調べると杵築神社の東隣にある万徳寺の墓地からも古墳の姿を少し見ることができるらしい。
これでも、わずかである。奈良県の遺跡地図によると前方部を西に向けた全長70mの前方後円墳とのことなのでこちらが前方部ということになるのかな。
発掘調査が行われていないので詳細は不明なのだが、わずかに採取された埴輪片などから先の狐井城山古墳に先行して5世紀の後半に造られたと考えられている。
最近、にわかにこの狐井稲荷古墳が脚光を浴びている。この古墳から国内で最大級の子持ち勾玉を、偶然所有者が見つけている。古市古墳群のおひざ元、土師ノ里で見つかった子持ち勾玉と非常に類似しているそうだ。
このことから、某新聞社の記事によると、この古墳と狐井城山古墳が大王墓である可能性が高まったという。確かに狐井稲荷古墳を、武烈天皇の傍丘磐坏北陵と、狐井城山古墳を顕宗天皇の傍丘磐坏南陵とする伝承もあるようなのだが、即位順でいうと顕宗天皇⇒武烈天皇になるのでなかなか説明は難しそうなのだが、結構、香芝市さん、飛ばすんだよね。平野塚穴古墳の発掘調査の説明でも思ったもんね。子持ち勾玉一つでは、なかなかそう言い切るのは難しいとは思うけどなあ。
とはいっても、どっちとも確実なことは言えんから、言ったもんがちなとこもあるかな。
この後は、初田川という川に掛かっている阿弥陀橋という橋のたもとに、狐井城山古墳から出土した石棺があるらしいので探してみることにした。
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