利休にたずねよ
山本 兼一著 PHP文芸文庫
「利休にたずねよ」、500頁に及ぶ長編小説。最近、どうも分厚い本を読むのが苦手になっている私ですが、コツコツと通勤時間などを利用して読了。久しぶりに読み応えのある小説でした。テーマは、豊臣秀吉による利休の切腹ではあるのですが、そのもの直接がテーマというわけではなく、それをきっかけに、いろいろな人物や場面を描いた短い話を積み重ねながら時間軸をさかのぼっていく手法を取っています。
千利休は、なぜ、美というものの求道者となったのか、なぜ、その結果、死を選ばなければならなかったのかを描いています。読んでいて、美というものは、境界線上にあるもので、日常的、あるいは非日常の中にあって、通俗を超越したところにあるものなんだろうか何て、わかったのかわからなかったのか不思議なことを考えてしまいました。
ただ、茶道が芸術として到達するためには、利休は、美の追求者として死ななければならなかったような気がします。もし、冒頭に書かれているように、秀吉に謝罪をし、死を逃れたとすれば、一気に通俗に陥ってしまったのではないでしょうか。死ぬことで茶道を芸術に昇華したのではないでしょうか。そんな気がします。
秀吉の側からいえば、美というものを追及することは、自分の権威、権力とは違ったものを、堂々と崇拝している訳で、日本を、東洋を統一しようという誇大妄想に取りつかれた人物からすれば面白くないでしょうから、自らの権力の傘下に入ろうとすれば、こういう結論になるというのも納得できるところでしょうか。
この時期の秀吉というのは、かなり精神の安定を損ねていて、暗い話というか残虐な話が多いです。この後の豊臣秀次の切腹にしてもそうですし、朝鮮出兵だとか、それまでの明るい豊臣秀吉像とは打って変わってますよね。利休の名声が上がれば上がるほど、猜疑心というか嫉妬の感情は募っていくのだろうな。それが、利休の切腹という形で爆発したのかもしれない。
少し、千利休の生涯に触れてみよう。生年は、1522年という。戦国時代にあたる。同年の生まれとしては、柴田勝家がいる。没年は1591年。千利休が切腹をする2か月ほど前には、豊臣秀長が亡くなっています。
千利休自身は、もとは堺の商人で納屋衆と呼ばれる倉庫業を営んでいたようです。利休という名は、本書にもあるように、当時の天皇、正親町天皇から賜った法名であり、かなり後の名乗りであって、もっぱら千宗易という名前を使用していたようです。
考えてみれば、もともと茶の湯というのは、もっと実利的なものとして、戦国大名たちに受け入れられたのでしょう。(このことは、本書の黒田官兵衛の章にもでできています。)そういったものが、いつの間にか、利休を頂点に自分の配下にある武将たちが、利休の七哲といって別のヒエラルヒーを作ったことが我慢ならなかったのかなとこの文章を書きながら思った次第ではあります。
本書に出てくる利休像で意外に思ったのが、非常に体格の良い、エネルギーのある人物のように描いています。もっと枯れたような人のように、なんとなく思ってました。実際、利休のものと言われる甲冑が残っているのですが、それを見るとかなり体格が良かったようです。
利休がなぜ、生涯をかけて、美を追求していったのか。それは、本書の最終章に出てきます。その時点で、普通人としての利休は死んだんでしょうね。きっと。
僕なりの疑問なんですが、なぜ利休は切腹だったんでしょう。切腹は、武家の作法であって、商人のそれではないと思うんですが、ただ、そういう意識が定着したのは江戸時代からなのかもしれませんが・・・。
本書の解説で、宮部みゆきさんが、本書を逆から読むことを提案しています。やってみたいけど、なかなか時間がね。
最後に、本書は、近々映画化されるそうです。
山本 兼一著 PHP文芸文庫
「利休にたずねよ」、500頁に及ぶ長編小説。最近、どうも分厚い本を読むのが苦手になっている私ですが、コツコツと通勤時間などを利用して読了。久しぶりに読み応えのある小説でした。テーマは、豊臣秀吉による利休の切腹ではあるのですが、そのもの直接がテーマというわけではなく、それをきっかけに、いろいろな人物や場面を描いた短い話を積み重ねながら時間軸をさかのぼっていく手法を取っています。
千利休は、なぜ、美というものの求道者となったのか、なぜ、その結果、死を選ばなければならなかったのかを描いています。読んでいて、美というものは、境界線上にあるもので、日常的、あるいは非日常の中にあって、通俗を超越したところにあるものなんだろうか何て、わかったのかわからなかったのか不思議なことを考えてしまいました。
ただ、茶道が芸術として到達するためには、利休は、美の追求者として死ななければならなかったような気がします。もし、冒頭に書かれているように、秀吉に謝罪をし、死を逃れたとすれば、一気に通俗に陥ってしまったのではないでしょうか。死ぬことで茶道を芸術に昇華したのではないでしょうか。そんな気がします。
秀吉の側からいえば、美というものを追及することは、自分の権威、権力とは違ったものを、堂々と崇拝している訳で、日本を、東洋を統一しようという誇大妄想に取りつかれた人物からすれば面白くないでしょうから、自らの権力の傘下に入ろうとすれば、こういう結論になるというのも納得できるところでしょうか。
この時期の秀吉というのは、かなり精神の安定を損ねていて、暗い話というか残虐な話が多いです。この後の豊臣秀次の切腹にしてもそうですし、朝鮮出兵だとか、それまでの明るい豊臣秀吉像とは打って変わってますよね。利休の名声が上がれば上がるほど、猜疑心というか嫉妬の感情は募っていくのだろうな。それが、利休の切腹という形で爆発したのかもしれない。
少し、千利休の生涯に触れてみよう。生年は、1522年という。戦国時代にあたる。同年の生まれとしては、柴田勝家がいる。没年は1591年。千利休が切腹をする2か月ほど前には、豊臣秀長が亡くなっています。
千利休自身は、もとは堺の商人で納屋衆と呼ばれる倉庫業を営んでいたようです。利休という名は、本書にもあるように、当時の天皇、正親町天皇から賜った法名であり、かなり後の名乗りであって、もっぱら千宗易という名前を使用していたようです。
考えてみれば、もともと茶の湯というのは、もっと実利的なものとして、戦国大名たちに受け入れられたのでしょう。(このことは、本書の黒田官兵衛の章にもでできています。)そういったものが、いつの間にか、利休を頂点に自分の配下にある武将たちが、利休の七哲といって別のヒエラルヒーを作ったことが我慢ならなかったのかなとこの文章を書きながら思った次第ではあります。
本書に出てくる利休像で意外に思ったのが、非常に体格の良い、エネルギーのある人物のように描いています。もっと枯れたような人のように、なんとなく思ってました。実際、利休のものと言われる甲冑が残っているのですが、それを見るとかなり体格が良かったようです。
利休がなぜ、生涯をかけて、美を追求していったのか。それは、本書の最終章に出てきます。その時点で、普通人としての利休は死んだんでしょうね。きっと。
僕なりの疑問なんですが、なぜ利休は切腹だったんでしょう。切腹は、武家の作法であって、商人のそれではないと思うんですが、ただ、そういう意識が定着したのは江戸時代からなのかもしれませんが・・・。
本書の解説で、宮部みゆきさんが、本書を逆から読むことを提案しています。やってみたいけど、なかなか時間がね。
最後に、本書は、近々映画化されるそうです。
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