大阪府立大学羽曳野キャンパスの北にマンションと宗教法人の建物に囲まれて、飛鳥時代に築造されたであろう方墳が一つある。用明天皇の皇子、つまり聖徳太子(厩戸皇子)の弟、来目皇子の御墓として、宮内庁が管理している古墳である。
古墳のデータを記すと、1辺約45m、高さ約10mの方墳であり、内部構造としては、両袖式の玄室を持つ横穴式石室であるといわれている。近年の発掘によると周濠が巡らされていたようである。
飛鳥時代の古墳としては、この時期の天皇陵などが方墳を採用していることを考えると、この古墳に、来目皇子が埋葬されている蓋然性は高そうである。また、文献上でも、日本書紀に「河内の埴生山の岡の上の葬る。」と記述されており、文献上も一致している。
ただし、来目皇子の父である用明天皇や兄の聖徳太子(厩戸皇子)が河内の磯長に埋葬されていることを考えるとなぜ、この地に葬られたのかが疑問とするところであり、また、どうも後世の文献に出てくるこの古墳の石室の記述によるとどうも飛鳥にある岩屋山古墳のような切石で作られた石室ではないかと言われている。そうなると、来目皇子が死去した年度と若干のずれが出てくると言われている。そのあたりをどうとらえるのかという問題がある。
来目皇子といえば、山岸涼子の「日出処の天子」での兄聖徳太子とその母穴穂部間人皇后との確執の原因となった役柄を与えられていたのが印象深い。実際は、新羅征伐の将軍となったが、途中病気にて死亡した人物であり、大きな事績を残したわけではないようだ。
陵墓の周辺は、写真のように、きわきわまでマンションなどの建物が立ち並んでいる。大阪の陵墓に指定されている古墳は、こんな状態になっているものが多い。これで本当に、世界遺産になるつもりなんだろうか。大仙古墳をライトアップすれば良いなんてことを言いだすような、文化レベルが?な知事もおられるようだしどうなんでしょうね。
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