休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

京都御苑と私塾「立命館」

2013-05-31 02:11:48 | 史跡を歩く
 京都御苑である。京都御所ではない。(といっても京都御所も京都御苑の中にあるのだが・・・。)でも大阪や京都の人は京都御所と読んでいるよね。京都御苑は、明治天皇が京都から東京に行幸に出られた後、御所の周辺を取り巻いて公家町を形成していた公家屋敷を撤去して整備したのが京都御苑である。僕の学生のころから幾度となく訪れていたはずなのだが、わずかだが明治以前の公家屋敷が残っているところがあるのに、今回初めて気付いた。

 一つが、閑院宮家の建物。永らく京都御苑の管理事務所として使われていたのだが、近年公開をされている。

 

 

 建物の中は、京都御苑の歴史や自然についての展示が行われているし、また縁側に腰掛けながら庭園を眺めることもできる。御苑の外は都会なのだがそんな喧騒はどこへやらという感じだ。

 もう一つ、拾翠亭という九条家の建物があるのだが、これは見ることが出来なかった。和服を着ている人が何人か入っていったので、この日はお茶会か何かが催されていたのだろう。
 閑院宮については、江戸時代の光格天皇が、この宮家から入って皇位を継いでいるので、今の皇室はこの系統を継いでいると言える。

 閑院宮跡から、しばらく歩くと、蛤御門が見える。幕末を語るには欠かせない禁門の変あるいは蛤御門の変として、長州藩と薩摩、会津両藩が衝突したところである。
 
 

 時は、元治元年(1864)に、朝廷から排斥されていた長州藩が、朝廷での地位の復権をめざして、会津藩京都守護職松平容保の排斥をめざしてクーデタを行おうとしたが、薩摩、会津両藩を中心に構成された軍隊の前に失敗をした事件である。新選組も当然この戦いには参戦していた。
 この門には、今も当時の弾痕が残っているそうだが、正直わからなかった。

 正面から京都御所を写してみた。何となく大河ドラマなどで見たことのある景色である。門は建礼門である。

 

 そして、京都御苑と言えば、赤瀬川源平率いる路上観察学会が発見をした「御所の細道」である。

 

 

 京都御苑内の砂利道にいつの間にか、獣道のように、自転車道がついているのである。また、みなさん律儀にこの細い道の上を自転車で走っているのである。見ているだけで楽しい気持ちになる。

 最後に、京都御苑の中には、西園寺家跡の碑が建っているが、ここがわが母校のもとになった西園寺公望公が建てた私塾「立命館」があったところである。

 

 

 明治2年、西園寺公望が、私塾として、立命館を建てるも、時の政府より、閉校を命じられ、8か月で終わった。そして、のち立命館大学がその名称を引き継ぎ現在に至っている。立命という言葉は、「孟子」尽心編の「命を立つる所以なり」に由来するという。ちなみに立命館大学は1900年、京都法政学校として開学したのが始まりである。

 それから、京都御苑の東側にある京都府立医科大学の片隅に、「立命館学園発祥の地」という石碑がひっそりと建っている。

 

 

 僕の学生の頃は、まだ広小路学舎の建物だけがかろうじて残っていたのだが、今や跡形もなく、この石碑のみが往時を偲ぶものとなっている。今や、立命館大学も全国有数のマンモス大学になっている。

 最近、改革疲れか何となく元気がないように見えるのは僕だけだろうか。
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