JR垂水駅から、西へ徒歩で15分ほ歩くと、五色塚古墳の姿が見える。住宅街を歩いていくとちょうど後円部の前に出てきた。
後円部に沿って西側に回り込むと、管理事務所兼ガイダンス施設がある。ここでは五色塚古墳についての知識を得たり、出土した円筒埴輪などが見学できる。
写真では、ガラスが反射してよく見えないが、鰭付朝顔形円筒埴輪や円筒埴輪、勾玉などが展示されている。
鰭付朝顔形円筒埴輪には、黒い焼きむら(黒斑)があり、また、三角形の穴がいくつかある。これらなんかは前期古墳の円筒埴輪の特徴とも言えそうである。そう言えば、近年発掘調査が行われたウワナベ古墳でも鰭付朝顔形埴輪は見つかっている。ただし、ウワナベ古墳のほうが五色塚古墳より後に築造されている。ウワナベ古墳の被葬者が意図的に古い形式のものを使用していたと考えられている。
五色塚古墳は、墳丘長194mの大型の前方後円墳である。墳丘は3段築造で作られており、後円部が前方部に比べてかなり大きく、また高さも前方部が低く、幅の狭くなっており、墳丘全体が葺石で葺かれ、それぞれの段には埴輪が巡らされている。そして古墳が作られたのは4世紀末から5世紀の初めだと考えられている。
階段を使って、墳丘に上ってみると、ずらっと復元された鰭付朝顔形円筒埴輪と円筒埴輪が並んでいる。それはそれで壮観ではある。
そして、後円部に上ってみる。
ここも円筒埴輪などがぐるっと墳丘の上を取り巻いていた。遠くには明石海峡大橋の姿が見える。おそらく五色塚古墳は、瀬戸内海を通っていく、船などの海上交通から見える姿を意識していたのではないだろうか。(当時は東海道線の近くまで海岸線があったと考えられている。)
ちなみに後円部に、この古墳の被葬者の埋葬施設があるはずだが、発掘調査が行われていないため、詳しい情報がない。
ちなみに五色塚古墳は、仲哀天皇の偽陵とも言われている。それは、神功皇后の三韓征伐の帰りに新羅等を討って、意気揚々と帰る神功皇后たちを、仲哀天皇の皇子香坂皇子、押熊皇子が、仲哀天皇の御陵を作ると偽って淡路島から石を運んで陣地を築いたとう伝説があった、ちなみに五色塚古墳の墳丘は、淡路島で持ち込まれた石で葺かれていたそうだ。
実際、海から見ると石造りの砦の様に見えたのではないだろうか。
写真は、島状遺構である。ちなみに河内の津堂城山古墳でも同様に島状遺構が見つかっている。また、墳丘も佐紀陵山古墳と類似形だと言われている。
こうやってみると、五色塚古墳自体、かなり畿内の王権側の影響が強い古墳のように感じられる。
そして。五色塚古墳の隣には、小壺古墳と呼ばれる直径43メートルの円墳がある。築造されたのは五色塚古墳と同時期と考えられている。
本来は2段築造なのだが何故か1段築造に整備されている。被葬者について、もともと円墳を作るぐらいの地位だったのだが、力を得て、地位が、前方後円墳を作ることができる上昇したのではないか。そして、瀬戸内海を通る海運を押さえるぐらいの勢力を蓄えた一族だと考えられそうである。
五色塚古墳も小壺古墳も兵庫県では一番大きい前方後円墳と円墳であるとのこと。そして今年は、両古墳とも史跡指定100周年だそうである。
この日も真夏日、暑かったなあ。
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