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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

平城京左京三条二坊一四坪 現地説明会

2016-06-12 19:30:40 | 現地説明会
 平成27年12月20日(日)、この日は、奈良市内の東西を横切っている二条通り沿いに3カ所、現地説明会が開催されており、3カ所をすべて回るには、結構、時間との戦いでもあった。
 近鉄奈良駅から、新大宮駅まで一区間電車に乗って、二条通りをてくてくと東に向かって歩く、かつて奈良警察署があった場所が、今回の調査地である。

 平城京左京三条二坊一四坪というのは、平城京内の地番を表している。大きく平城京は、左京と右京に分かれ、その左京の三条大路と東一坊大路と東二坊大路との間の一六分割された地割の一番東の列の北から三つ目になる。ちなみに長屋王邸は、三条二坊の一、二、七、八坪にあった。そして一坊大路と二坊大路の間には、長屋王だけではなく、藤原不比等や藤原仲麻呂なども居住していたと伝えられる。

 今回の発掘調査は、奈良県立橿原考古学研究所にて行われ、奈良時代のものと考えられる掘立柱建物が37棟以上検出されている。

 【西側の建物群】

 

 敷地の西側には、いくつかの建物跡が多数重なった状態で検出されている。建物の規模としては比較的小規模で何度も建替えられていることから、倉庫群であった可能性もあるとのこと。

 【掘立柱建物の木柱】

 

 いくつかの柱穴の後には、掘立柱に使われていたであろう木材の根元がそのままに残っていた。最終的には、ここから取り上げられることになるのだろう。

 【東側の建物①】

 

 【東側の建物②】

 

 【東側の建物③】

 

 東側の建物では、建物1、建物2、建物3の3棟の掘立柱建物が検出されている。その中で建物1が、東西7間以上×南北3間と大きく、おそらく東側の敷地では一番重要な建物ではなかったかと考えられている。建物3(建物2の奥、緑色のビニールひもで枠取りされている。)も大きく、東西3間×南北10間あり、間にも柱穴がある。この建物は、建物1、建物2よりも前に建てられたものと考えられている。

 この邸宅跡は、奈良時代、2つの時期に渡って使用されており、間には近くを流れていた佐保川の氾濫により、新たに整地された跡があるという。

 【柵3】

 

 敷地を南北に仕切っている柵が検出されているが、区画全体を区切っているのではなく、一部を区切っている。このため、敷地の分割を目的としたものではなく、一つの敷地として、その敷地に中をある一定の役割を元に区切っていったものと考えられる。

 【井戸6】

 

 珍しい6角形の井戸。平城京では、他に1か所出土した例があるという。

 【三条二坊一四坪の北限】

 

 調査はされていないが、一四坪の南限を示す看板。

 奈良時代、この調査地は、掘立柱建物や井戸の痕などから、貴族の邸宅として使用されていたと考えられている。詳しい年代はこれから精査するとのことである。
 しかし、一日に3つも見て回るというのは大変なことで、時間との戦いということで、話もそこそこで次の現地説明会の会場へ向かうことにした。

 ※ ちなみに、見出しの軒丸瓦は、井戸の中から見つかったもの。平城宮で使われたのと似てるような気がする。ということは、かなり位の高い人の邸宅であったかも・・・。



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