![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/76/a4895b268f80d56ce3aac416f7031b95.jpg)
市野山古墳の陪冢にあたる衣縫塚古墳から北へ向かうと志貴県主神社がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/a5/14e410397b4ba9df5cd6357aa1b7f417.jpg)
この辺りは、古くは志紀郡と呼ばれており、志貴県主と同族の志貴首一族であったと伝えられる。県主というのは、大化の改新以前の地方の行政組織であり、国の下位に属していたと考えられている。志貴県主については、古くは古事記に雄略天皇が河内の国を行幸したときに、志機の大県主が、天皇の宮と同じように、家の屋根に堅魚木を上げているのを見て大いに怒ったという話が見えている。そして、志貴県主神社は、志貴県主一族の氏神である神八井耳命を祀っている。
もともとは、河内国国府のそばにあったらしいが、近世になってこの場所に移転してきたらしい。
また、近年の発掘調査では、この神社の周辺に、総社1号墳、2号墳、3号墳と呼ばれる、3つの古墳があったことがわかっている。
この志貴県主神社から、距離的には200mくらいかな、住宅街の中を少し北へ行ってから、東へ行くと国府遺跡に出る。遺跡は、大きな広場となっており、一部は運動施設になっているようだ。国府遺跡については、戦前から知られている遺跡で、ここから大量に縄文・弥生時代の人骨が大量に見つかっている。
公園の石碑には、そのことを顕彰して刻まれている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/b6/88e97e6029c84c42d210ecf2337dbbb5.jpg)
また、国府遺跡を有名なものにしているのは、旧石器時代の石器が見つかっていることで、国府型ナイフ形石器と呼ばれ、その制作過程は瀬戸内技法と呼ばれている。二上山で採掘されるサヌカイトを使って、サヌカイトをきれいに小さく剥離させて翼状の破片を作って使用していくもので、そういえば、僕も学生のこと習ったような気がする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/b7/c7048428ba27e952f168b88ea2f8587d.jpg)
国府遺跡の中には、古代寺院の跡が見つかっている。文献等に記録がないので、地名を取って衣縫廃寺と呼ばれている。遺跡公園内には、塔の心礎が置かれ「義侠熊田氏之碑」と書かれた石碑の台石となっている。残念ながら「義侠熊田氏」といはどういった人物であったのかは、調べてみたのだがわからなかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/fd/b2d375f376509c6ca79e8aee53b9bfdd.jpg)
石碑のあるあたりは若干盛り上がっているため、塔の基壇があったと想定される。ただ、発掘調査の結果塔の心礎の位置は当初の場所からは移動されているらしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/fe/ecb21010a46dcb42c67f4d3c824a18a8.jpg)
また、衣縫廃寺については、塔を東に、金堂を西に、講堂を北に位置する法起寺式伽藍(塔と金堂の位置が法隆寺式伽藍と反対)と想定されている。遺跡内を歩いていると、礎石らしき石が転がっており、基壇があったような感じのところもあった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/c9/2b635e5fc21cfcfd648fabc18f6f3879.jpg)
衣縫廃寺については、飛鳥寺と同様に、素弁八葉蓮華文軒丸瓦が出土しており、この寺院が、日本の中でもかなり早い段階に建立されたことが想定される。そういえば、飛鳥寺を建てる時に飛鳥衣縫未造祖樹葉の家を壊して建てたという記述がある。もしかしたら、衣縫廃寺を建てた氏族と関係があるのかもしれない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/54/d6cdcb03e6a0c9e19392fd6046e10000.jpg)
国府遺跡の辺りには、河内国の国府もあったと考えられており、奈良時代から中世にかけて、河内国の中心であったと思われる。この周辺は、家の立ち退きで、そのまま市が買い取ったような空き地が点在している。史跡指定地が少しづつ大きくなっているのかななんて思いながら、この地を後にした。
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この辺りは、古くは志紀郡と呼ばれており、志貴県主と同族の志貴首一族であったと伝えられる。県主というのは、大化の改新以前の地方の行政組織であり、国の下位に属していたと考えられている。志貴県主については、古くは古事記に雄略天皇が河内の国を行幸したときに、志機の大県主が、天皇の宮と同じように、家の屋根に堅魚木を上げているのを見て大いに怒ったという話が見えている。そして、志貴県主神社は、志貴県主一族の氏神である神八井耳命を祀っている。
もともとは、河内国国府のそばにあったらしいが、近世になってこの場所に移転してきたらしい。
また、近年の発掘調査では、この神社の周辺に、総社1号墳、2号墳、3号墳と呼ばれる、3つの古墳があったことがわかっている。
この志貴県主神社から、距離的には200mくらいかな、住宅街の中を少し北へ行ってから、東へ行くと国府遺跡に出る。遺跡は、大きな広場となっており、一部は運動施設になっているようだ。国府遺跡については、戦前から知られている遺跡で、ここから大量に縄文・弥生時代の人骨が大量に見つかっている。
公園の石碑には、そのことを顕彰して刻まれている。
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また、国府遺跡を有名なものにしているのは、旧石器時代の石器が見つかっていることで、国府型ナイフ形石器と呼ばれ、その制作過程は瀬戸内技法と呼ばれている。二上山で採掘されるサヌカイトを使って、サヌカイトをきれいに小さく剥離させて翼状の破片を作って使用していくもので、そういえば、僕も学生のこと習ったような気がする。
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国府遺跡の中には、古代寺院の跡が見つかっている。文献等に記録がないので、地名を取って衣縫廃寺と呼ばれている。遺跡公園内には、塔の心礎が置かれ「義侠熊田氏之碑」と書かれた石碑の台石となっている。残念ながら「義侠熊田氏」といはどういった人物であったのかは、調べてみたのだがわからなかった。
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石碑のあるあたりは若干盛り上がっているため、塔の基壇があったと想定される。ただ、発掘調査の結果塔の心礎の位置は当初の場所からは移動されているらしい。
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また、衣縫廃寺については、塔を東に、金堂を西に、講堂を北に位置する法起寺式伽藍(塔と金堂の位置が法隆寺式伽藍と反対)と想定されている。遺跡内を歩いていると、礎石らしき石が転がっており、基壇があったような感じのところもあった。
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衣縫廃寺については、飛鳥寺と同様に、素弁八葉蓮華文軒丸瓦が出土しており、この寺院が、日本の中でもかなり早い段階に建立されたことが想定される。そういえば、飛鳥寺を建てる時に飛鳥衣縫未造祖樹葉の家を壊して建てたという記述がある。もしかしたら、衣縫廃寺を建てた氏族と関係があるのかもしれない。
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国府遺跡の辺りには、河内国の国府もあったと考えられており、奈良時代から中世にかけて、河内国の中心であったと思われる。この周辺は、家の立ち退きで、そのまま市が買い取ったような空き地が点在している。史跡指定地が少しづつ大きくなっているのかななんて思いながら、この地を後にした。
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