休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

唐櫃山古墳発掘調査 現地説明会

2023-01-14 12:15:42 | 現地説明会

 令和4年10月23日(土)

 土師ノ里駅から府道堺大和高田線を渡って、少し東に行ったところに今回、発掘調査が行われた唐櫃山古墳がある。古墳と隣接してある、コンビニエンスストアから古墳の敷地に入る。現地に着いたときは、ちょうど1回目の説明が終わった時で、かなりの人が集まっていた。

 

 唐櫃山古墳は、市野山古墳(伝允恭天皇陵)の南にある古墳時代中期後半(5世紀の後半か?)に築造された全長59mの帆立貝式古墳である。市野山古墳の陪冢の一つと考えられているが、宮内庁の指定は受けていない古墳である。そのため、残念なことに府道堺大和高田線や近鉄南大阪線の敷設により、大きく改変されている。

 随分前にこの古墳を見たときは、フェンスに覆われて、この古墳から出土した家形石棺が野ざらしの状態で置かれている状態であった。(『古市古墳群をあるく(藤井寺市編)⑨ ~唐櫃山古墳・衣縫塚古墳~』を参照)

 その後何度か発掘調査が行われているが、2020年の発掘調査では、市野山古墳の堤の上面に3~5cmの礫を敷いていたことが判明している。

 

 発掘調査の説明会は、唐櫃山古墳の残存している墳丘の上で行われたため、調査区全体を鳥瞰的に見ることができた。写真の上の方にある森が、主墳である市野山古墳である。

 発掘調査では、造り出しの上面に並べられた円筒埴輪列のほか、後円部の墳丘や周濠、市野山古墳の堤が確認された。

 

 造り出しと考えられる部分では、西側に円筒埴輪が四つ並んでいるのを検出した。造り出しは東西が14m、南北は、かなり短く2~3mと考えられる。

 

 ちなみに反対側、つまり東側では埴輪列等は検出されなかった。また造り出しは葺石は施されていなかった。

 

 墳丘は後世かなり削られていたが、後円部が円弧を描いている様子がわかる。

 

 調査区の一番北の部分に市野山古墳の堤がある。唐櫃山古墳の周濠と接するように市野山古墳の堤がある。唐櫃山古墳は、市野山古墳の堤と周濠が接するように築造されており、この古墳の被葬者は、市野山古墳の被葬者と密接なつながりがあるようだ。

 

 市野山古墳との距離感はこんな感じ。

 市野山古墳からは、過去、円筒埴輪や朝顔形埴輪などのほか、人物などの形象埴輪などが検出されている。

 出土した円筒埴輪については、、テントの中で展示されていた。

 また、この古墳のメインディッシュは、古墳の竪穴式石室から出土した刳抜式家形石棺であろう。

 

 石材は阿蘇溶解凝灰岩であるとのこと。わざわざ九州、熊本の阿蘇からこの石材を持ってきたのである。当時の大王の権力もさることながら、このそう大きくもない唐櫃山古墳の被葬者の棺として使用した意図はなんであろう?

 

 今回の発掘調査で、唐櫃山古墳に造出しがあったことが、初めて確認されたとともに、その位置が市野山古墳に向ける形で造られており、市野山古墳との関係がより一層深いことを示唆していると考えられる。

 

 唐櫃山古墳は、私有地から市が買い取っているので、今後、整備して公開されるのであろう。その時が楽しみでもあり、不安でもある。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 古市古墳群をあるく(まとめ) | トップ | 興福寺東金堂院北面回廊の調... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

現地説明会」カテゴリの最新記事