令和4年10月15日(土)
昨年度に引き続き、奈良文化財研究所による興福寺東金堂院の発掘調査の現地見学会が開催された。非常にお天気も良く、現地見学会には最高に天候であった。
興福寺の東金堂は、現在建っているのは、応永22(1415)年に再建されたもので、奈良時代、神亀3(726)年に聖武天皇により、元正上皇の病気平癒を祈願して薬師三尊像を安置する金堂として建設されて以来5代目になる。
そして、平面は桁行七間、梁間四間。屋根は一重、寄棟造、本瓦葺での建物であり、現在は国宝に指定されている。そして現在は無くなっているが、周囲を単廊と築地塀で囲んでいたと考えられている。
今回の発掘調査は、東金堂院と国宝館の間の場所に調査区を設け、発掘調査が実施された。
発掘調査の結果、大きく3点のことが判明した。
①興福寺東金堂院の回廊について、北面回廊で、梁行1間、桁行7間分の回廊の基壇が検出されており、基壇は平安時代のもので、乱石積の外装であったことが判明した。
②礎石や据付穴がほぼ同じ位置で重複するのの、凝灰岩や瓦などの遺物が含まれていることから、礎石が創建当初とほぼ同じ位置で据えなおされていると考えられ、創建時の位置と規模を踏襲して再建されたと考えられる。
③東金堂院の規模が従来の想定よりも大きくなることが判明した。今回の調査で、東金堂院の北面回廊が、従来よりも東へ延び、東西100m以上になることが確定した。このことにより東金堂院については、東金堂、五重塔の他に建物があった可能性が出てきた。
礎石をよく見ると火災で爆ぜたようになっているものもある。近くで焼土も出土している。
昨年度の調査で、治承寿永の内乱(平重衡による南都焼き討ちの時)のものと考えられる焼土が出土しているので、これも同様のものかもしれない。
基壇については、乱石積であり、様々な石が混在しており、基壇外装に転用された凝灰岩の切石もあることから、奈良時代の物ではなく、創建時の位置を踏襲しながら平安時代に造られたものと考えられている。
また、その北側に石組みがある。これについては木興面回廊の北側に何か建物があったことを想定させるが、今の時点ではっ切りわからないそうだ。これからの研究課題という事かな。
また、北面回廊が廃絶後に造られた江戸時代の参道も検出されている。
食堂・細殿に続いていたらしい。
東金堂院の回廊については、平安時代を最後に再建されていないようであり、藤原氏の財力が衰退していったことを示しているのかもしれない。そして、平重衡の焼討の跡、再建された東金堂に安置されたのが、旧山田寺の薬師如来像である。その後、この仏像も火災に遭い、仏頭のみが現在に伝わる。
今回の調査で出土した平安時代の物と考えられる軒平瓦である。
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