奈良には、新木山古墳と呼ばれて、陵墓参考地として宮内庁が管理している古墳が二つある。一つは広陵町にある三吉陵墓参考地とされる前方後円墳の古墳と、もう一つが大和郡山市にある郡山陵墓参考地として宮内庁が管理する古墳である。
大和郡山市にある新木山古墳は、近鉄橿原線郡山駅が最寄り駅になるが、この日は、JR郡山駅から歩いていくことにした。駅からは、西に向かって、道なりに歩いていくとほぼ一本道である。途中、オークワという大型スーパーが目印だと思う。
途中、いくつか歩いている道が、郡山城の外堀跡であることを示す道標が立っている。
寄り道をすると、古い趣のある民家がいくつかありそうだったが、ここは、まっすぐわき目もふらず新木山古墳をめざすことにした。住宅街を抜けていくと、突然、左手にこんもりとした森が見える。これが新木山古墳である。
道沿いには、簡単な案内板が立っている。案内によると、全長122m、後円部径67m、前方部幅75mの前方後円墳である。陵墓参考地として宮内庁が管理しているため、きちんとした発掘調査等が行われていないため詳しい情報がない。ただ、外形から古墳時代の後期前半(6世紀前半)と考えられていた。
ところが近年になってこの古墳から円筒埴輪片などが見つかり、埴輪から考えると、一世紀ほどさかのぼる可能性が出てきているそうだ。ちなみにこの古墳の埋葬者として想定されているのが、桓武天皇の尚侍兼尚蔵阿部古美奈という人物。誰って感じだが、奈良時代の人物、内大臣藤原良継の室で、桓武天皇皇后藤原乙牟漏の生母、だから平城天皇と嵯峨天皇の祖母にあたる人であるらしい。考えてみると、天皇家の人物でも、天皇の皇后でもない。外祖母ってあまたいるけど、宮内庁が管理しているような人いないと思うのだが、どういう力学が働いて陵墓参考地として管理されることになったのやら・・・。
ただ、奈良時代の末の人物だから、古墳が築造された年代とはかなりの開きがあるのは間違いない。
古墳のすぐ北西には県道が通っており、結構交通量が多い道路となっている。歩道もないので、写真を撮るのに夢中になると少し危ないような気がする。また、説明によるとかつては、いくつか陪冢らしきものもあったようだ。今は、すべて破壊されている。
周辺にはこれと言って古墳がないので、古墳群を形成していない単独の古墳のようである。
そして、前方部の角に部分に、陵墓参考地の立て札が立てられている。古墳の前方部と道路との間に緩衝地帯があり、おそらくは、周濠があったんだろうなと思って歩いていくと萬福寺というお寺の前あたりから、周濠が残っており、どうやら金魚の養殖池になっているようだった。
大和郡山市と言えば、金魚の養殖では日本一を誇っている。まちのいたるところに金魚の養殖池がある。新木山古墳も東側の周濠の周りには、小さな金魚の養殖池がたくさんあった。
東側の池をまたいで撮った一枚。
この辺りから見る新木山古墳が一番姿がよさそうである。新木山古墳を一通り見学したのち、ふたたびJR郡山駅へ戻ることにした。
大和郡山市にある新木山古墳は、近鉄橿原線郡山駅が最寄り駅になるが、この日は、JR郡山駅から歩いていくことにした。駅からは、西に向かって、道なりに歩いていくとほぼ一本道である。途中、オークワという大型スーパーが目印だと思う。
途中、いくつか歩いている道が、郡山城の外堀跡であることを示す道標が立っている。
寄り道をすると、古い趣のある民家がいくつかありそうだったが、ここは、まっすぐわき目もふらず新木山古墳をめざすことにした。住宅街を抜けていくと、突然、左手にこんもりとした森が見える。これが新木山古墳である。
道沿いには、簡単な案内板が立っている。案内によると、全長122m、後円部径67m、前方部幅75mの前方後円墳である。陵墓参考地として宮内庁が管理しているため、きちんとした発掘調査等が行われていないため詳しい情報がない。ただ、外形から古墳時代の後期前半(6世紀前半)と考えられていた。
ところが近年になってこの古墳から円筒埴輪片などが見つかり、埴輪から考えると、一世紀ほどさかのぼる可能性が出てきているそうだ。ちなみにこの古墳の埋葬者として想定されているのが、桓武天皇の尚侍兼尚蔵阿部古美奈という人物。誰って感じだが、奈良時代の人物、内大臣藤原良継の室で、桓武天皇皇后藤原乙牟漏の生母、だから平城天皇と嵯峨天皇の祖母にあたる人であるらしい。考えてみると、天皇家の人物でも、天皇の皇后でもない。外祖母ってあまたいるけど、宮内庁が管理しているような人いないと思うのだが、どういう力学が働いて陵墓参考地として管理されることになったのやら・・・。
ただ、奈良時代の末の人物だから、古墳が築造された年代とはかなりの開きがあるのは間違いない。
古墳のすぐ北西には県道が通っており、結構交通量が多い道路となっている。歩道もないので、写真を撮るのに夢中になると少し危ないような気がする。また、説明によるとかつては、いくつか陪冢らしきものもあったようだ。今は、すべて破壊されている。
周辺にはこれと言って古墳がないので、古墳群を形成していない単独の古墳のようである。
そして、前方部の角に部分に、陵墓参考地の立て札が立てられている。古墳の前方部と道路との間に緩衝地帯があり、おそらくは、周濠があったんだろうなと思って歩いていくと萬福寺というお寺の前あたりから、周濠が残っており、どうやら金魚の養殖池になっているようだった。
大和郡山市と言えば、金魚の養殖では日本一を誇っている。まちのいたるところに金魚の養殖池がある。新木山古墳も東側の周濠の周りには、小さな金魚の養殖池がたくさんあった。
東側の池をまたいで撮った一枚。
この辺りから見る新木山古墳が一番姿がよさそうである。新木山古墳を一通り見学したのち、ふたたびJR郡山駅へ戻ることにした。
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