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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

桜井市の古墳をあるく(纒向編)④ ~纒向石塚古墳~

2021-03-08 22:09:17 | 史跡を歩く

 纒向勝山古墳から纒向小学校の北側を通って東へ行くと、学校の横に広い原っぱのような場所に出る。よく見ると土地の真ん中のあたりがほんのわずかだが盛りあがっているように見える。

 

 これが、纒向石塚古墳である。纒向石塚古墳は、全長96m、後円部径64m、前方部長32mとされ、全長、後円部径、前方部長の比率が、3:2:1となっており、「纒向型前方後円墳」の典型例とされる。ただ、実際のところ、墳丘のかなりの部分が後世の改変を受けているとともに、残った墳丘も、太平洋戦争中に高射砲台が設置されたため削平されているため、かなり低くなっている。

 正直、纒向石塚古墳という案内がないと古墳とは気づかないであろうなあ。

 

 さて、この纒向石塚古墳は、日本でこれまでに発掘調査をされた古墳としては、一番古いものの一つだと言われている。発掘調査の結果、この古墳の周濠から庄内Ⅰ式期と庄内Ⅲ式期、布留0式期の土器が検出されており、これを基にして、纒向石塚古墳の築造時期については、2つの見解がある。

 

 つまり、築造時期について、3世紀初頭もしくは、3世紀末だと考えられている。ただ、箸墓古墳に先行する古墳の一つとして考えると3世紀の初頭の築造と考えるのが妥当のような気がする。

 ちなみに、この纒向石塚古墳は、調査の結果、前方部がかなり小さいことが判明、他の三つの古墳の内では、纒向矢板古墳と同じ前方部が短いグループになる。箸墓古墳にたどり着くまでに試行錯誤をしていたんだろうな。この四つの古墳をどうとらえるかは、いろいろな見解があり、定説を見ていない状況のようだ。

 現在は残っていないが、この墳丘の周りを幅20mの周濠が巡らされていた。

 

 そして、纒向石塚古墳の説明にも(墳丘墓)として書き込まれている。確かに、この古墳についても、古墳の特徴である葺石や埴輪がなく、むしろ弥生時代の方形周溝墓の流れを汲んで、方形周溝墓から古墳への流れを示すものであると言えそうだ。

  

 それから、問題は、これらの古墳(墳丘墓)から箸墓古墳へどうやって跳躍したのかというところであろうか?纒向小学校の周辺にあるこれらの4つの古墳(墳丘墓)と箸墓古墳については、規模や技術的にかなり距離がありそうな気がする。

 これらの古墳を見て、山邊の道に向おうをしたところ、桜井線の脇に纏向遺跡の遺構が一部復元をされていた。このことは後日書きたいと思う。

 纒向石塚古墳は、最古の古墳だとされている。この状態でもよくぞここまで残ったものである。素晴らしいことだと思う。


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