慶雲寺を出て、これからいよいよ箸墓古墳に向かう。今回は、後円部から古墳に近づいていく。墳丘の樹木が、かなり伐採をされていて、隙間から墳丘の姿が見える。
よく観察してみると段丘になっているのがわかる。ちなみに後円部は、円丘部を入れて5段、前方部は4段となっているそうだ。
後円部は、道路からは、墳丘が高すぎてわからないが、前方部は、確かに4段になっているように見えた。
途中、くびれ部の辺りに墳丘の管理用の出入り口があった。
ちょうど宮内庁の職員が入っていくところだった。これから、我々一行を見守ってくれるのだろう。
その後、前方部の拝所の前を通って、大池の堤防に出た。
大池は、水が抜かれ、池の底を見せて、そして箸墓古墳は、堂々とした悠久の姿を見せていた。
大池は、一見すると箸墓古墳の周濠のように見えるが、実は、後世に灌漑用のため池として掘られたものである。そのため、池の管理については、宮内庁ではなく、地元が管理している。
池の中に、小さな島が浮かんでいるが、実はこれも古墳である。奈良県の遺跡地図で確認すると、池の中にこのほかにもいくつか古墳が沈んでいるようである。
このことなどは、この池が後世に築造されたという証明とも言えそうだ。この日は、池の水がないため、めったに見れない全体の姿を見せている。
そして、箸墓古墳は、大池の北西端、国道169号線の辺りから見るのが一番きれいな気がする。
調べると、箸墓古墳には、墳丘から幅10メートルほどの幅で作られた周濠があり、それは空濠であったそうである。
大池の堤防をぐるっと前方部に回り込み、いよいよ池の底に降り立つ。3年ぶり2回目の感動である。池の底、墳丘との際には小さい石がごろごろと転がっている。この石のいくつかは、墳丘の葺石などが落ちてきたものであろうと思うとワクワクしてくるから、おかしなものだ。
よくよく眺めてみると、石の他に須恵器や土師器(埴輪?)のかけらが落ちていた。そして、面白いことに、江戸時代ぐらいの瓦も前方部の辺りにいくつも転がっていた。どうもその頃墳丘の上にお茶屋さんがあったらしい。
墳丘を見ると池との境の所はかなり池の水で墳丘が削られていた。単純に1年1ミリずつ削られたとして、1700年で17mも削られていることになる。早急に保存措置は必要だろうなと思う。
それから前方部にきれいに並べられた石があった。基底石でもなさそうだし、かと言って自然にできたものではなさそうだ。聞いてみると何かわからないが、もしかしたら墳丘を作る時の基盤工事に用いられたものなのかもしれないという話だ。
こうして間近で古墳の姿を見るとやっぱりそのすごさを再認識するとともに、どこかで時点できちんと手を入れて、後世に残すことも考えないといけない。建築物でも大規模修理などを重ねることで今に残る。同様に古墳も修復をしながら残していかないといけない。ただ、その修復の仕方はこれからきちんと議論をしていかないとね。少なくとも明日香にあるUFOのような古墳がいいとは絶対思えない。
そして、今回のイベントは、桜井市観光協会が主催というものの、古墳のある箸中地区を中心とした地域の方の尽力で開催となったもので、その姿勢は本当に頭が下がる想いである。そして箸中地区の地域力というものを非常に感じた。
珍しく真面目なことを考えて、巻向駅に赴き、解散となった。また、来年もあれば是非とも参加したいと思う。
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