冬のある日、梶井基次郎よろしく、京都の寺町通をぶらぶらと歩いてみようと思い立ち、京阪の神宮丸太町駅を下車、鴨川を渡って京都御所の東を南北に走る寺町通に向かう。
その後、寺町通へ、ちょうどこの日は、皇后杯都道府県別女子駅伝があり、もうしばらくするとランナーが走ってくるという状況。寺町通も準備運動するランナーで一杯だった。
そういえば、この前に京都に来た時は高校の女子駅伝があり、目の前をランナーが走っていったところであった。よくよく縁があるものだ。
とは言え、この日、京都の寺町通に来たもう一つの目的が、京都市歴史資料館にて開催されている「京歴展!林屋辰三郎展」をみることである。今回の展覧会は、文化庁移転記念・京都市歴史資料館開館40周年記念の特別展として、2期にわけて開催されており、第1期では、京都市史編纂事業や京都市歴史資料館の設立などを牽引した林屋辰三郎氏の業績を振り返るということで開催された。
簡単に林屋辰三郎氏の経歴を記す。
1914年 石川県金沢市で生まれる。
1938年 京都帝国大学を卒業、大学院に進学。
1943年 大学院を退学し、京都市史編纂事務の嘱託となる。
1948年 立命館大学文学部教授となる。
1969年 立命館大学文学部教授を辞職する。
1970年 京都大学人文科学研究所教授に就任。78年まで。
1978年 京都国立博物館館長に就任。85年まで
1998年 死去
おもな著作として、「日本国家の解体」「京都」「町衆」「日本の歴史⑫ 天下一統」「日本史類聚」など多数ある。
そうした林屋氏の業績の中で、有名なのは「町衆」という歴史概念を定着させたという事だろう。自立、自主、自治を備えた文化の担い手としての市民という位置づけを定着させたとされる。
そして、僕が立命館大学に入った時、まず最初に手を取ったのが、末川博氏の「法律」で、その次ぐらいに読んだのが林屋氏の「京都」だったような記憶がある。
林屋氏の「京都」は古代から現代までの京都の歴史を、京都の各地域と関連付けて叙述しており、京都市の本でありながら、ガイドブックにもなるという本である。京都文化を語るのは欠かせない本ではないだろうか。僕の中では(そんなに京都に関する本を読んでいるわけではないが)、この「京都」と水上勉氏の「京都図絵」そして、横井清氏の小論ではあるが、「京都幻像ーある小宇宙ー」が、京都文化を描いた本としてのベスト3である。
華やかな京都ではない、水墨画のような陰影をもった京都が描かれている気がする。
そうして、現代に目を移すと、どうも京都の街が随分と変容してきているような気がする。観光という波に吞み込まれて行っているような感じだ。観光産業に偏りすぎて、これまでの文化的遺産を食いつぶしているような気さえする。
振り返って、林屋氏は「京都」の最後には、こう書いている。「四季の京都がもつさまざまな宗教的行事を、ひとえに観光資源化しようという政策は、しばしば論議を巻き起こしたけれども、その場合文化の尊重ということだけが信仰と観光の妥協点であった。文化観光都市とならべる以上、文化が観光の犠牲となってはならないのである。むしろ京都が、文化観光都市であることに徹することによって、おのずから観光の目的は達せられるであろう。」今でも我々の心に響く提言ではないだろうか。
京都市歴史資料館のすぐ横には同志社の創始者、新島襄の旧宅がある。
この日は、休日のため中に入れなかったが、以前、平日の時に中に入れてもらったことがある。
洋風の建築であるが、和洋折衷の建築で二階建てになっている。一階の一部分が外から見ることができるようになっている。建物の雰囲気が、まさに同志社のシンボルっていう感じだ。
歴博を出て丸太町通との交差点に出ると、まさにこれからランナーが通過しようとするところだった。
ちょうど、道路が渡れるタイミングだったので反対側に渡っていったが、その後、中学生ランナーの17人抜きの快走があったと言う。もう少し残ってみればよかった。惜しかった。
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